「神の言葉が臨むとき」

                          ヨナ書1章1~3節 

                                                水田 雅敏

 

今日からヨナ書を学びます。

ヨナ書は「主の言葉がアミタイの子ヨナに臨んだ」という文で書き始められています。

神の言葉がある人に臨むというのは、神がその人に語るべき言葉を託したり、神がある人を何らかの行動に召し出すときに用いられる表現です。それは神の意志がある人にはっきりと示されることです。別の見方をするならば、神が今その人を必要としておられるということが明らかにされることです。生ける神が今一人の人に向かって動き出しておられる、それが「主の言葉が臨む」ということの意味です。

神が動き出しておられる、神が自分に向かって働きかけておられる、そのことを知った人はそのとき何らかの応答をしなければなりません。神から語りかけられ、呼びかけられ、招きを受けた人は何らかの答えをそこで出さなければなりません。その言葉が、その働きかけが無かったように生きることはもはやできないのです。神がそこで何かの意思表示をなさったのですから、人はそれに応えなければなりません。

神の意志はそれが人に明らかにされるときに人間の問題となってくるのです。神の計画がまだ知らされていないときは、それは私の問題にはなりません。しかし、神が何らかの形で御自身の意志を私たちに示された限りは、神の意志は私の問題となって来ざるを得ないのです。

そのとき、神の言葉が指し示す方向に素直に歩んでいく応答もあります。神の御心をもっときちんと知ろうと祈りの格闘を始める人もいます。神の言葉や命令が理不尽なものにしか思えずに、神に抗議し、神と争うという応答をする人もいるかもしれません。さらには、そのような神の言葉を自分にとっては受け入れがたいものとか、あまりにも重い荷物と受け止めて、神の前から逃げ出す人もいます。

ヨナはどうしたのでしょうか。

ヨナに臨んだ神の言葉は「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ」でした。神はヨナに近づいて、ニネベに行きなさい、そこで神の言葉を語りなさいとお命じになりました。

しかし、それに対してヨナは「主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった」と3節に記されています。

ヨナは無言のうちに神の言葉に反抗し、神が指し示す方向とは逆の方向に向かって行きました。高い船賃を払ってでも船に乗り込む行動の中に、また人々の中に紛れ込んでしまおうとする姿の中に、ヨナの神への反抗の強い意志を読み取ることができます。

このときのヨナの心の内はどのようなものだったのでしょうか。

それを知る手がかりは、ヨナに行くように命じられた「大いなる都ニネベ」、ここにヨナの心の内を知る手がかりがあります。

ニネベは当時の大国アッシリアの首都でした。エルサレムからは直線で東北700キロくらいの所に位置した都市です。国の政治や経済や文化の中心都市でした。繁栄の都であり、エルサレムに比べるならばあまりにも大きな街でした。それと同時に頽廃と堕落の罪が満ちた都でもありました。

ヨナにとっては、それは自分とは全く関係のない異国の大都市、そのようにしかニネベを捉えることができなかったのではないかと思います。

「彼らの悪はわたしの前に届いている」と神は語っておられます。そのまま見過ごしにできないほどにニネベの罪が深刻なものになっている、そのように神はヨナに語っておられます。神を抜きに膨れ上がった人間社会、人間世界の象徴と代表がここにあります。

そこに神の言葉を携えて行けとヨナは命じられます。そこで語るべき言葉はここには記されていません。しかし、それは当然、悪に対する警告の言葉であり、悔い改めを求める言葉だったでしょう。

それらの言葉をニネベの人々に語りかけることは、裏を返せば、悔い改めるならば神の救いの恵みが彼らにも与えられる、ということを示すことでもありました。

ヨナはそのような神の計画を知らされて心が騒ぐのです。なぜニネベの人々にそのようなことを告げなければならないのか、どうして自分がその務めを担わなければならないのか、神はいったい何を考えておられるのだろうか、とヨナは神への猜疑心に襲われたかもしれません。

あるいは、さらに推測してみれば、ヨナの心のうちに恐怖の思いが生じているということも考えることができます。噂で聞いているニネベの都の大きさ力強さ、それに比べて自分の小ささ貧しさ、その比較の中でヨナは、自分にはニネベの都は大きすぎる、悪のはびこっているニネベは自分の手に負えないという恐怖心と、神の考えておられる通りのことは自分にはできないという無力感とによって縮こまってしまっていると考えることもできます。今までに経験したことのない働きへの恐れと不安がヨナを襲っています。そのようにして、彼の心は騒いでいるのです。

さらに、もう一つ決定的なこととして、自分が信じる神はイスラエルの神であって他の国の神ではない、他の民にとって神の恵みは必要ではない、そういう選民意識や特権意識がヨナの心を支配していたであろうということも推測できます。

ヨナはニネベの人々に神の言葉を語る必要性も必然性も感じないのです。その責任を覚えるということも全くないのです。救いはイスラエルのみという考えの中にあるヨナにとってニネベの人々は全く自分の関心外のことだったことも、ヨナが神の前に逃げ出すことの一つの原因になっていたのではないかと思います。

しかし、私たちがここで考えなければならないことがあります。それは私たちが関心を持たないものであっても神が関心を持たれることがあるのだということです。神が関心を持たれることであるならば、そのことが示されるならば、私たちが以前に関心を持つことがなかったことに対しても私たちは関心を持つことが求められるのです。神の関心は私たちの関心事にならなければならないということです。

ニネベの悪はヨナには全く関係のないこと、関心のないことでした。しかし、神はその悪の都ニネベにも心を向けられるお方です。そうであるならば、ヨナは自分の思いを超えて、神の関心事を自分の関心事とすべきだったのです。

ヨナは、しかしまだそのような信仰を自分のものとすることはできていませんでした。それゆえ自分の思いとは反することを命じられる神から逃亡することを企てるのです。それが「主から逃れようとしてタルシシュに向かう」という行動の意味することでした。

3節にはタルシシュという名が三回も記されています。そこには神から逃れようとするヨナの強い意思が表されています。ヨナは神への不満をもって、神が定められた所ではなくて、自分で勝手に決めた所へ向かって行きました。不従順とは、いつもこのように神の御心とは反対方向に向かおうとする心と行動のことです。

ヨナは神を信じなかったのではありません。神の言葉を聞いて神から逃れようとすることは、神が生きておられることを信じていたからこそそれに反抗しようとしている行為です。しかし、神を信じていたとしても、また神の存在を知っていたとしても、今知らされた神の計画が、いやその命令が、ヨナには煩わしく思えたのです。そのために神から離れて生きることを試みようとしているのです。

神は今、私たちの教会に、また私たち一人一人に、何を命じようとしておられるのでしょうか。どこに行けとその方向を指し示しておられるのでしょうか。私たちの教会に、私たち一人一人に、神はどこに向かえと語りかけておられるのでしょうか。

 

私たちは、神の言葉がいつ私たちに臨んでもよい信仰の備えをすること、そして、その神の言葉が臨むとき、それに素直にお応えする心の準備をすることから、この週の歩みを始めていきたいと思います。