「真実な言葉を語る」

                        ヤコブの手紙5章12節 

                                                 水田 雅敏

 

ヤコブの手紙において、これまで教会員に対する様々な勧めがなされてきました。その終わり近くで「誓いを立ててはなりません」という教えが語られています。「わたしの兄弟たち、何よりもまず、誓いを立ててはなりません。」

誓いとは何なのでしょうか。一般的に誓いといわれるものの中には大きく分けて二種類あります。

一つは、約束をすることです。例えば、結婚式などにおいて、私はこれこれのことを固く守ることを約束します、と言って、自分の決心を表明します。守らなければならないことへの決意がそこで公に表されるのです。

もう一つは、自分が証言したり、告白したり、宣言したりすることの正しさを保証する行為としての誓いがあります。例えば、パウロはコリントの信徒への第二の手紙の123節で次のように言っています。「神を証人に立てて、命にかけて誓いますが」。

ここでは、今から語ることは神を引き合いに出しても決して間違ったことではないのだ、ということを主張するために誓いがなされています。

そのようにあえて誓いという形をとって自分の言葉を語らなければならないということは、裏を返せば、人が語る言葉の中には多くの嘘や偽りがある、この世界にはそのまま信じては大きな過ちにつながるような欺瞞に満ちた言葉が溢れているということです。「神を証人として語る」と言わなければ信じてもらえない現実があるということを誓いの行為は逆に示しているのです。

それではヤコブが誓いを禁じる教えを語っているのはどうしてなのでしょうか。それは一言で言えば、教会の中に誓いが誓いとして本来の役割を果たしていない現実があったからです。「守る」と公に意思を表明した約束が守られていない、教会が公にする言葉に内実が伴っていない、その結果、教会の交わりが壊れたり、互いの間に不信感が生まれたり、そして傷つき躓く人々が出て来る、そういうふうに教会でこそ真実の言葉が語られるべき誓いが本来の役割を果たしておらず、形だけのものになってしまっているということが起こっていたのです。そのことを「誓いを立ててはなりません」という教えは示しているのです。

それでは、この「誓いを立ててはなりません」という教えによって、ヤコブは具体的にどういう内容のことを語ろうとしているのでしょうか。

この「誓いを立ててはなりません」という教えを文字通り受けとめて、すべての誓いを拒否する、それを行わないというあり方をする教派もあります。例えば、クェーカーの教会などはその一つです。彼らは裁判の場での誓いやそれを伴った証言を一切行いません。

ところが聖書を見てみますと、先ほど引用したパウロは、神を証人に立てて誓うと述べて、自分の語ることが真実であることを相手に受け止めてもらいたいと訴える手紙の一文を残しています。また私たちの教会においても様々な儀式において誓約を行っています。洗礼式や役員の就任式などがそうです。

そのように考えてきますと、ヤコブは「誓いを立ててはなりません」と言っていますが、それを全面的に禁止することが命じられているというよりも、もっと違う内容をそこから聞き取らなければならないということを私たちは考えさせられるのではないでしょうか。つまり、誓いの言葉が信じられなくなったり、どうでもいい消耗品のように扱われたりする中で、これは神に懸けて誓う言葉だから真実だ、と自己主張したり、自己正当化を図るのではなくて、神の名を持ち出す必要がないほどに常に真実の言葉を語り続けなさい、そういう内容の教えがここにはあると思います。言葉に対する不信を打ち砕くためには常に真実の言葉を語り合う教会の交わりが造り上げられなければならない、これがヤコブの教えなのです。

そのことをヤコブは「あなたがたは『然り』は『然り』とし、『否』は『否』としなさい」という言葉で言い表しています。

「然り」を「然り」とするというのは、神の前で肯定し受け入れることのできるものは「はい、そうです」と言って、率直に、はっきりとその意思を表すということです。「否」の場合も同じです。神の前で受け入れることができず、語ることができず、否定するほかないものは「いいえ、そうではありません」と言って、はっきりと拒否の意思を表すということです。半分然りで半分否というような曖昧さを伴う言葉を語ってはならない、然りは然りとし、否は否とすることの大切さ、それがこの「『然り』は『然り』とし、『否』は『否』としなさい」との勧めが意味する事柄です。

もちろん、断言できないこと、約束できないこと、確信をもって告白できないことが信仰の世界にはあります。一つのことに確信が持てるようになったと思うと次に新たな疑問が湧いてきて、どうしても「然り」と言うことができないということも起こってきます。そういうことの繰り返しの中で私たちの信仰生活は営まれています。だからこそ、「然り」と言えることははっきりと「然り」と言い、「否」と言うほかないと思えることに関してははっきりと「否」と言う態度が求められているのです。

詩編の139篇の4節に次のような言葉があります。「わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。」

わたしの口がまだ一言も語らぬ前に神はすべてを御存じである、わたしたちが言葉を口にする前に神はわたしたちの思いを知っておられる、と詩人は歌っています。

これは考えようによっては恐るべきことです。なぜなら、私たちが口にする言葉によって人は私たちを判断しますが、神は私たちが言葉を口にする前から私たちのすべてを知っておられるということだからです。私たちは語る言葉によって神の前に立つのではなくて、私たちは既にその前からすべての時に渡って神の前に立っているのです。

しかしまた、別の考えもここから示されます。すなわちこれは、私たちを束縛し、私たちを身動きできなくするものではなくて、むしろ私たちを嘘や偽りから解放する言葉として聞くことができるということです。大それた誓約をもってほかの人々を信じさせようとする必要はない、神はすべてのことを御存じである、そのようにして神は私たちを支え、助け、守ってくださっている、それゆえ私たちは安心して自分の思いを語ってよいのだ、そのような平安がこの詩編に込められていることも、私たちは聞き取ることができるのです。

もちろんそれは相手への配慮なしに語ってよいということではありません。相手の心を思いつつ、なお私たちは自分の思いをありのままに、真実に、正直に語ることが許されているのです。

しかし、そこで考えるべきことがなおあることを思わされます。それは二つあります。

第一は、私たちはどんなに努力してみても自分の不真実さを拭い去ることができない面を持っているということです。私たちの内に「真実であろう」という思いはあります。しかし、不真実を拭い去ることができないのが私たちの姿です。

しかし、その自らの不真実に私たちは絶望することはありません。なぜなら、真実なお方が不真実な私たちを支え続けてくださり、幾らかでもその不真実を少なくする方向へと私たちを導いてくださるからです。

テモテへの第二の手紙の2章の13節にこうあります。「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。」

私たちが真実でなくてもイエス・キリストは常に私たちに対して真実であってくださいます。このキリストに捕らえられ続ける限り、私たちの不真実は幾らかでも減少の方向へと向かって行くということを私たちは確信してよいのです。

そしてそのために必要なこと、それが第二のことですが、それは、不真実な私たちの言葉が幾らかでもイエス・キリストの真実に近づくものとなるために、神に祈りつつ語るべき言葉を探すということです。語るべき言葉を神から与えられるということは私たちのなすべき行為を神から示されるということです。神から生き方が示されるのです。

コヘレトの言葉の5章の1節に次のようにあります。「焦って口を開き、心せいて、神の前に言葉を出そうとするな。神は天にいまし、あなたは地上にいる。言葉数を少なくせよ。」

舌を制御することの困難さをヤコブはよく知っていました。そういう言葉も学んできました。だからこそ、私たちは、神の真実、イエス・キリストの真実を証しする言葉を語る者として自分が成長していくことができるように、そのことを願いつつ神からの導きを心から祈り求めなければならないのです。

 

「然り」を「然り」とし、「否」を「否」とし、そして偽ることのない言葉を語り続けることができる、語り合うことができる教会であることをヤコブは願っています。「誓いを立ててはなりません」という教えは真実に満ちた教会を目指している教えであることを今日私たちは新たに心に刻みたいと思います。