「起きてあなたの神を呼べ」

                          ヨナ書1章4~6節

                                                 水田 雅敏 

 

先週からヨナ書をご一緒に学んでいます。

ヨナは、神が行けと命じられたニネベには向かわずに、逆の方向のタルシシュに行くことを自分で勝手に決めて、タルシシュ行きの船に乗り込みました。こうしてイスラエルの地から逃れることによってヨナは神の前から逃亡することができると考えたのです。

ところがヨナが乗り込んだ船は大きな嵐に遭遇することになります。

4節にこうあります。「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。」

ヨナの逃亡に対して神は、海に大風を放ち、大荒れにして、船が砕けんばかりに行く手を阻まれました。しかしそれは、ヨナに裏切られたことに対する神の報復ではなくて、神から逃げ、神に対する責任を放棄しようとするヨナに対して、それは不可能なのだということを示す神の愛の手段です。通常の方法によってはまともに応答しようとしない者を神は時には荒々しい手段をもって御自分のほうに連れ戻すことも為さるお方なのです。

ある人が次のようなことを言っています。「もしあなたが今、目の前にある責任や困難から逃走することによってそれを避けようとするなら、それと同じ問題が他の場所で拡大し増幅してあなたを襲うだろう。」

目の前にある責任や困難を回避しそこから逃れようとしても、神がそれを為せと命じておられることであるならば、他の場所でさらに拡大し増幅した形でそれがその人を襲うということです。まさにヨナにはそのことが起こっているのです。

5節の前半にこうあります。「船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした。」

船を襲った大きな嵐のために船乗りたちに恐怖が生じました。この船乗りたちは、このあとの9節でヨナが「わたしはヘブライ人だ」と言って自分を説明していることとの関連で考えますと、おそらく他国の人々だったと思われます。それは宗教という観点に立つならば、イスラエル人が信じていた神を知らない人々、異教の人々ということになります。

船乗りたちは積み荷を海に投げ捨てて船を軽くしようとします。大切な荷物だったに違いない積み荷ですが、生き延びるためにはそれを投げ捨てなければなりません。

さらに船乗りたちは「それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ」ました。船に乗り込んでいる人たちを助けるために彼らは必死になって働き、真剣に祈っています。異なる信仰の人々が船という一つの共同体を危機から免れさせるために労苦を担い合い、それぞれの信仰に立った祈りを今、神の前に差し出しているのです。

私たちは嵐に遭遇した船乗りたちの懸命な努力とその信仰を心に留めておくことが求められています。彼らを危機に瀕して慌てふためく愚かしい人と見てはなりません。逆に、一時的であれ、一つの共同体を造り上げている船とその中にいる人々の命のために必死に働く人々、命を尊ぶ人々がそこにいる事実を見るべきです。

それに対してヨナはどうしているのでしょうか。

5節の後半にこうあります。「しかし、ヨナは船底に降りて横になり、ぐっすりと寝込んでいた。」

この海の嵐、船の沈没の危機はヨナの神への不服従、不従順が原因です。ヨナの、神への反逆という罪が、彼一人が災いを受けることで終わらずに、ヨナと結びついている共同体全体を危機にさらすことになっていることを私たちはここで考えざるを得ません。一人の存在は決して全体と無関係ではあり得ないのです。

ヨナは、そういうことには少しも思いが至らず、嵐の中で、しかも船乗りたちが必死で危機を回避しようとしている中で平然と船底に降りて行って横になり、ぐっすりと眠り込んでしまいました。

このヨナの眠りは何だったのでしょうか。それはやっと神の前から逃げることができたという偽りの安心感によるものだったに違いありません。しかしそれは束の間の安心感であり、偽りの平安でした。周りの人々が恐怖に陥って必死で船を守ろうと戦っている時に神を忘れ、人々を忘れ、自分が少なくとも今属している共同体の危機を忘れて、ぐっすりと眠り込むヨナの姿には哀れさえ感じられます。船底に降りて行ったのも秘密を持っている自分の正体が暴かれるのを避けようとしたためだったのではないでしょうか。こうしてヨナはますます神から離れていく道を辿るのです。

偽りの平安は必ず破れる時が来ます。さらにそれはその偽りの平安を造り出した人だけでなく、その人が属する共同体をも危機に陥らせます。

ヨナ書においてヨナはイスラエルの民の代表、神の民の象徴的な存在として描かれています。それは今日で言えば教会のことです。ですから、ヨナのこの時の様子は教会が神に対して不従順である時に何が起こるかを示唆するものだと言ってよいでしょう。

神から「こうしなさい」と命じられた務めを果たしていないことをヨナの不従順は意味しています。そのヨナと重ね合わせて、教会の神からの逃亡を私たちは考えてみなければなりません。しかも、ヨナ自身がまだそのことに気がついていないように、教会自体がそのことに気がついていないということが起こるのです。教会が神の委託や要請や命令を拒むとき、つまり、神の御心に逆らうとき、大きな嵐を引き起こすことになるのです。

教会自体がまだ気がついていないそのとき、誰がそれに気づかせてくれるのでしょうか。

6節にこうあります。「船長はヨナのところに来て言った。『寝ているとは何事か。さあ、起きてあなたの神を呼べ。神が気づいて助けてくれるかもしれない。』」

必死で船の沈没を防ごうとしていた人々の中に船長ももちろんいました。彼は船底で眠り込んでいるヨナを起こし、「さあ、起きてあなたの神を呼べ」と促します。あなたが信じている神に助けを求めて祈れというのです。

この船長には謙虚さがあります。「神が気づいて助けてくれるかもしれない」と語る言葉の中に、事を決するのは人間ではなくて神御自身だということをわきまえている様子が伺えます。神への信頼と、しかし事を為すのは神だという神の自由への畏れとが、「神が気づいて助けてくれるかもしれない」という言葉に込められています。

船乗りたちが危機を回避するために懸命に働いているのに、働きもせず、祈りもせず、眠り込んでいるヨナは叩き起こされて、自分がそこから逃げようとしている神に向かって祈れと異教の人から促され命じられています。ヨナは今、自分自身の信仰の責任の目覚めと実践を促されていると言ってもよいでしょう。

ヨナは、直接的には神御自身からではなくて彼の周囲の人から、彼と同じ神を信じている人ではなくて異なる神を信じている人から、ヨナが軽蔑していた異邦人から、あなたは祈っていますか、あなたは祈っていないではないですか、あなたはあなたの神に命をかけて祈るべきではないですか、と指摘され、促されているのです。

今日の教会も様々なこの世界の危機の中で教会の周囲から促しを受けているように思います。教会は真剣に祈っているのだろうか、教会は教会の本来の務めを果たしているのだろうか、あなたがたは神を信じているのならそれらしく振る舞うべきではないか、と他の神々を信じる人々から問いかけられているように思います。

私たちは、もちろん神御自身のまなざしの中にありますし、まず神御自身から私たちは正しく聞き、正しく御心を受け止めなければなりません。しかしそれと同時にこの世の人々からもまなざしを向けられていることを忘れてはなりません。神は御自分の教会が為すべきことを為さないとき、教会が間違った方向へ歩んでいるとき、御言葉への不従順に陥っているとき、御自身の教会を正すために信仰のない人々をも用いられるのです。

私たちから見て信仰のない人と思われる人々のほうが、遥かに真剣に、この世界、この社会の危機を回避するために努力し、祈り、戦っているのではないかということを考えてみることも大切なことです。それをきちんと見つめることによって、教会は自らを正していくことをしなければなりません。そしてもう一度、神に目を向け、神の御言葉に耳を傾け、真剣に祈り、神からの委託と命令の内容が何であるかを正しく受け止めて、今日における教会の責任を誠実に果たしていく教会を造り上げていかなければなりません。

 

様々な危機に瀕しているこの時代の中で、その回避のために懸命に働いている人々がいます。そういう中で教会は偽りの平和の中に眠り込んでしまってはならないのだ、祈りなしに過ごしてはならないのだということを教えられます。この社会の中で教会の祈りはなくてはならない不可欠の事柄であることを今日私たちは心に刻みたいと思います。