「見えない神を信じる」

                ヘブライ人への手紙112331

                                  水田 雅敏 

 

しばらくヘブライ人への手紙を中断していましたが、今日から再開します。 

ヘブライ人への手紙の11章は「信仰によって」という言葉が繰り返し繰り返し耳に響いてくる所です。

この11章に書かれている人たちはみんな死にました。その死んだ人たちについて、この手紙の著者は13節にこう書いています。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。」

私たちも皆、やがて死にます。葬儀をしてもらいます。その葬儀をする時に、牧師がその人の歩みを振り返った時に、「この人も信仰によって生き、信仰によって死にました」と言うのです。家族の中で、職場で、学校で、「あの人は結局のところ信仰によって生かされていたのだ」と人々が認めるのです。いや、誰も認めてくれなかったとしても、神にそのように認めていただく歩みをするのです。それが私たちの信仰生活です。

この手紙の著者はそのことを深く祈り求め、その「信仰によって」という言葉で覆われる歩みを造りたいと願って、旧約聖書を開くのです。

ここにまず語られているのはモーセです。

27節にこうあります。「信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです。」

これはこの手紙の中でも信仰が最も明確に語られている言葉の一つです。

モーセにとって見えていたのはむしろ王の怒りです。王の怒りが強力な軍隊として見えています。自分の死が見えているのです。しかし、そこでモーセは目に見えない方に信仰のまなざしを注ぎました。まるで見ているかのように確かな現実として神を信じました。それは現実を耐え忍ぶ力として現れました。

「目に見えない方を見ているようにして」。これは私たちについても言えることです。これこそが「信仰によって」生きる姿を支える根本の心です。

23節にはモーセの両親の信仰が語られています。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。」

この11章に繰り返される「信仰によって」という言葉の共通の特色は「決断の信仰」です。

私たちが信仰によって生きた人だとされる一つの大事な場面はどこかというと、私たちが決断を迫られる時です。右に行くか、左に行くか、どんなに熟慮を重ねてみても、最後のところは決断しないと事が始まりません。

これは私たちがどんな人生を歩もうが体験することです。時には毎日のように起こります。家族の中で、職場で、学校で、大きな場面、小さな場面、そこで信じてこの道を選ぶという決断ができるかどうか、それが私たちの歩みを定めます。

その決断の信仰の一つの特徴は恐れが伴っているということです。

モーセという子供が与えられた時、その頃エジプトで生きていたイスラエルの人たちは、イスラエルの民が大きくなることに不安を抱いたエジプトの王によって、「男の子は生まれたときに殺さなければならない」という命令が出されたことを聞いていました。

ですから、モーセが生まれた時、両親は怖かったと思います。密かに育てなければならないからです。彼らはその恐れを超えていなければ子供を育てることはできません。恐れに負けたら自分の子供でも殺さないわけにいかなくなってしまいます。死をもって脅かす王の命令に信仰をもって対抗するのです。

モーセはそこで、不思議なことにエジプトの王女に拾われ、エジプト人として育てられます。エジプト人の顔をして王宮に育っていれば何ということはありません。権威を楽しみ、富を精一杯、享受することができました。しかし、やがてそれを捨てました。それは王を敵に回すことでした。ここにも恐れが生まれます。その恐れと戦うのです。

モーセに導かれたイスラエルの人々は怖くてしようがなかったと思います。こちらは何の武器も持っていないのに後ろにエジプトの大軍が押し寄せてきます。そして、目の前にある紅海の水が分かれます。その中に入って行きます。「水が戻ってきたらどうしようもないではないか」と思います。前にも恐れがあります。しかし、信仰をもって紅海を渡るのです。

最後に語られているのはラハブです。

31節にこうあります。「信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れたために、不従順な者たちと一緒に殺されなくて済みました。」

モーセの後継者ヨシュアが軍隊を引き連れてエリコの町に達します。その偵察隊がラハブのところにやって来ます。いわば敵の軍隊といってもいい彼らをラハブは家にかくまいました。そして、すぐに見つかりそうになります。「敵の斥候、スパイを隠しているのではないか」と問いただされます。恐怖の連続だったと思います。こちらを助ければあちらに殺されるというような危機が続いたのです。ラハブはその恐れに耐えたのです。

私たちの決断が鈍るのは怖い時でしょう。怖くない時には割合に自由に決断するかもしれませんけれども、怖さの中に立った時に私たちの決断は鈍ります。こんなことをして生活が危うくなったらどうしようかなどという不安から逃れることができなくなるのです。

そこでなおラハブは信仰によって神の示される道に生きたのです。

神が示される道とは何でしょうか。それは目に見えない方を見ているようにして生きることです。神は目に見えないのです。しかも、見えないままにしておくのです。見えない神を偶像にはしないのです。見えないままに、しかし、見ているかのごとく、あるいは目に見えている現実よりももっと確かな現実として、神が生きておられることにすべてを懸けるのです。

その時、そこに生まれてくるものがあります。それは虐げられている者と共にあるということです。

25節にこういう言葉があります。「神の民と共に虐待される方を選び」。

虐げられる者の傍らに立つのです。

決断といっても、やみくものことではありません。恐れを知らずしてどんなことでも独善的にやってのけるということではありません。神を信じて、神の真理と信じるところに立つのです。

イエス・キリストが私たちと共に苦しみの中に立ってくださった、そのあとを追うようにして、今私はこの人の悩みを共にしなければならないと信じたところに立つのです。

ですから、26節に「キリストのゆえに受けるあざけり」という言葉が続くのです。

勝手なことをやってあざけられて、信仰に生きているのだから構わないなどという、周りの人にただ迷惑をかけるだけの独善的な信仰がここに語られているのではありません。キリストと同じようにあざけりの中に立って、小さくさせられている者と共に生きるのです。

ここではモーセとイエス・キリストの姿とが一つになっています。この手紙の著者は聖書のどこを読んでも、そのようにしてキリストの姿を探しました。キリストが呼び起こしてくださる信仰の姿を探したのです。

この手紙の著者の目が私たちの生活を探る時に、やはり同じようにキリストを見つけてくれるだろうと思います。「この人もキリストによって呼び覚まされる信仰に生きている。だから、こんなふうに躓きながらも教会に生きているではないか。伝道と奉仕の業に生きているではないか。愛に生きているではないか。」そう言うことができるのです。

 

そのような信仰の歩みを私たちは日々造っていきたいと思います。