「祈りなさい」

                       ヤコブの手紙51318節 

                                               水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヤコブの手紙の5章の13節から18節です。

この箇所でヤコブは祈りについて教えています。祈ることの重要性を述べて、この手紙を締め括ろうとしています。

私たちはこの祈りについての教えを三つの点から学びたいと思います。

第一は、どんな時に祈るのかということです。

福音書の中での主イエスの祈りの姿とか、あるいはパウロの手紙の中に見られる「絶えず祈りなさい」という言葉などから、私たちはあらゆる時に祈ってよいのだということを聖書から示されています。私たちはいつでも祈ってよいのです。

そのことを踏まえつつ、ヤコブの言葉に耳を傾けるときに、私たちはさらに特別な時の祈りについて教えられます。

ここで祈ることが勧められている人々が置かれている状況を見てみますと、まず「苦しんでいる人」が挙げられています。

13節の前半にこうあります。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。」

苦しんでいる時、私たちは霊肉共に弱っています。そういう時、人は何かにすがりたくなるものです。

そのような時だけ、神への信仰心を表したり、神なるものに祈ったりすることを俗に「苦しい時の神頼み」といって、そういうものを皮肉ったり批判したりすることがあります。

しかし、よく考えてみるならば、苦しい時に祈ることがもし許されないとするならば、そのような神とはいったい何なのでしょうか。

主イエスが明らかにしてくださった神は、私たちが苦しいときに祈ることを許してくださるお方であり、祈ることをお求めになるお方であり、祈ることを命じておられるお方です。

詩編の50篇の15節に次のようにあります。「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。」

神は、「悩み苦しむ時、わたしを呼びなさい。わたしに助けを求めなさい。わたしはそれに応えてふさわしい助けと救いを送る」と約束してくださっているのです。

神に祈るということは、神が今の自分に関わってくださること、今の自分が置かれている状況に神が介入してくださることを求めるということです。苦しい時にこそ、弱っている時にこそ、私たちは神に信頼し、言葉の限りを尽くして助けを祈り求めてよいのです。

また、苦しみや悩みの時だけでなく、13節の後半では、「喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」と勧められています。

人は、苦しみの時に、神から離れていく危険を抱えると同時に、喜びや有頂天になっている時も、それをすべて自分で為し得たかのように考えて神から離れる危険を抱えるものです。そのような時、喜びや感謝に満ちたことが自分に与えられたのはすべて神の愛と恵みに基づくものであることを覚えて、神に感謝の祈りを献げ、神の御名をほめ歌うように促されているのです。

詩編の33篇の1節から2節にこうあります。「主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。琴を奏でて主に感謝をささげ、十弦の琴を奏でてほめ歌をうたえ。」

喜びの時に感謝と喜びの歌を神に献げること、これも祈りです。喜びの中においても神と向き合って、素直に自分の心の内の喜びを示し、「あなたがそれを与えてくださいました。心から御名を賛美します。神さまも共に喜んでください」と願い、この喜びを与えてくださった神の御名を賛美しつつ、ほかの人々にも神が恵みに満ちた方であることを証ししていくこと、それが祈りであり、祈りに基づく私たちの生き方なのです。

こうして私たちは、苦しみの時に神の御名を呼び、喜びの時に神の御名を賛美する、あらゆる時に神と向き合い、神と語ることが許されているのです。

次に、誰が祈るのかということをヤコブの教えから聞きたいと思います。

誰が祈るのかということに関しては、まず自分であることは当然のことです。「祈りなさい」と求められているのはほかの誰でもなく自分自身です。

そのことを踏まえつつ、14節の言葉に注目しましょう。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。」

病気の時は私たちのあらゆるものが弱っている時でもあります。不安だったり、孤独だったり、また死の恐怖が襲ってくることもあります。祈ることができなくなったり、祈りを忘れてしまったりもします。

ヤコブはその弱さを責めません。そのような時には「教会の長老に来てもらって、祈ってもらいなさい」と勧めています。

ここで言われている「教会の長老」というのは、今日の教会の役員、あるいは牧師とよく似た立場にある人と考えてよいでしょう。キリスト者の群れにおいて様々な面で責任ある立場についている人のことです。そのような人が、病気の人のために、その人に代わって祈る時、病気の人自身もその祈りの中で自分を神に委ねることができる者とされていくというのです。祈ってくれる人と共に同じ神のほうを向き、神の前に新しく立つことができる者とされていくのです。

15節の前半にこうあります。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」

また16節の後半にこうあります。「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」

神を心から信じ、神に自分自身を委ねることができる人の祈りに、神は心を傾けてくださるのです。

14節に「主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」とあります。

オリーブ油はある種の癒しの効果があって比較的軽い病気の人に油を塗ることが古来ユダヤにおいて行われていました。しかし、ここで大切なのは、オリーブ油そのものが持つ癒しの力というよりも、「主の名によって」ということです。主が行動してくださることを求め、主が共にいてくださることを確信して油を塗り、そして祈るのです。

そこで塗られる油は主が共にいてくださることのしるしの役割をします。洗礼式の時に水が用いられて罪が洗い流されたということをその人に知らせる役割を持っているのに似て、祈りと共に注がれ塗られる油は、神が癒してくださることを信じる信仰を病気の人の心に生み出す働きをするのです。

こんにちの私たちは油を病気の人に塗って祈ることはしません。しかし、薬を飲むとか手術を受けるなどの治療行為を受けながら、同時に神に祈ります。なぜなら、神は治療行為をも御業のために用いてくださるからです。

15節の後半から16節の前半にこうあります。「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。」

私たちは牧師や長老だけでなく同じ信仰に生きる兄弟姉妹にも祈りを求めることができるとヤコブは言います。自分では自分のことが祈れなくなっている時、自分の罪のゆえの苦しみを聞いてくれてそのために祈ってくれる人を私たちは兄弟姉妹の中に求めてよいのです。私たちは自分の罪の赦しのために自分が祈ると同時に兄弟姉妹のためにも祈ることが求められているのです。

最後に、祈りの力、祈りの効果は何かという点からヤコブの言葉を考えてみましょう。

信仰を持って祈る人の存在や信仰に基づく祈りの大切さを教えられてきましたが、それは、祈りが魔術的に働くとか、祈る人の力が作用して何かが起こるというのではありません。祈りに応えて働いてくださるのは神御自身です。

15節に「主がその人を起き上がらせてくださいます」とあります。

また同じ15節に「主が赦してくださいます」とあります。

そして16節には「主にいやしていただくために」とあります。

このように祈りは人間の行為である以上に神がその中で働いてくださる神の行為であることを私たちは忘れてはなりません。

神が自分のために働いてくださる時と場所を造り出すことができる祈り、それが私たちに与えられていることは何という大きな恵みでしょうか。教会とキリスト者が様々な苦難の中でなお望みを失わずにいることができる力の源がここにあります。

そのような祈りに生きた一人の預言者エリヤのことが17節から18節に語られています。「エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした。しかし、再び祈ったところ、天から雨が降り、地は実をみのらせました。」

「エリヤは、わたしたちと同じような人間でした」とヤコブは語っています。私たちと同じ人間、弱さを持つ人間ということです。しかし、その人間が神の前にへりくだって真実に祈る時、神がそれに応えてくださる、そのしるしがエリヤの祈りの出来事にあるとヤコブは考えています。そして、このエリヤに倣うことをヤコブは私たちに勧めているのです。

宗教改革者のルターは祈りについて次のように言っています。「神の御心に沿う祈りは世界を支える。祈りがなければ世界は全く違ったものになったであろう。」

 

世界はキリスト者の真実な祈りによって神の愛を引き出し、それによってどうにか支えられてきました。教会はいよいよ祈りを強くしていかなければなりません。神は大いなる恵みを用意して私たちの真実な祈りをいつも待っておられるのです。