「苦難の中で祈る」

                         ヨナ書213

                                                水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はヨナ書の2章の1節から3節です。

海に放り込まれたヨナはその後どうなったか、それが2章以下に書かれています。ヨナは海へ放り込まれたのですが、ところが事態は思いがけない展開をします。

1節にこうあります。「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた。」

ヨナは、放り込まれた海の中で神が備えてくださった巨大な魚に呑み込まれ、その魚の腹の中で三日三晩を過ごすことになります。

こんなことが実際にあり得るのか、という疑問が生じても不思議ではありません。また、そのときの巨大な魚とは何だったか、ということについても議論があります。しかし、そのような関心はヨナ書を理解する上であまり意味がありません。

ここでのポイントはヨナの神への反逆が遂に行き着いたところはヨナの生と死の限界点だったということです。海に放り込まれるというのはヨナが命の瀬戸際まで追い込まれたことを示しています。しかし、そのように死の世界まで覗いたヨナを神は助け出してくださいました。神の救いの御手が海の中のヨナに伸ばされました。それが巨大な魚という形で描かれているのです。

2節から3節の前半にこうあります。「ヨナは魚の腹の中から自分の神、主に祈りをささげて、言った。」

ヨナは魚の腹の中で初めて祈る者として神の前に自らを表します。彼はやっと祈る者となったのです。

その祈りの内容が3節から10節に書かれています。

3節を読みますと、ヨナは次のように言っています。「苦難の中で、わたしが叫ぶと 主は答えてくださった。陰府の底から、助けを求めると わたしの声を聞いてくださった。」

ヨナは今、魚の腹の中で神に感謝の祈りを献げているのですが、既にその前に、海に放り込まれて死にそうになったときに神に向かって叫び、助けを求めていたのです。自分を助けることのできる方は自分がその方の前から逃げようとしているあの神以外にいないことに気づかされて神に祈っていたのです。

そのヨナの叫ぶ声に神は耳を傾けてくださいました。その結果が巨大な魚をもってヨナを助けるという神の救いの御業として差し出されたのです。

死の間際まで追い込まれた者が神以外に助けることのできるお方はいないことを知って神に助けを求めるとき、神はそれに応えてくださるお方だということが巨大な魚という形で示されているのです。

ヨナは神の憐れみの中で新しく造り変えられるために、こうして再び神の御手によってしっかりと捕らえられました。魚の腹の中は救いの場であると同時にヨナの再生の場です。

祈りが真剣にささげられるとき、その人は変えられていきます。なぜなら、祈りを聞き届けられる神がその人を変えてくださるからです。そういう意味で祈りは人を変革する力を持っていると言ってもよいでしょう。

主イエスは、ヨナが三日三晩、魚の腹の中にいたこの出来事を、御自分が墓の中に葬られることとの関連で語っておられます。

マタイによる福音書の1240節にこうあります。「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」

これは主イエスが死んで葬られることを意味しています。三日三晩ヨナが魚の腹の中にいたように、主イエスも三日間大地の底に沈まれました。しかし、それで終わりではありませんでした。葬られて三日目に主イエスは復活の新しい命を持って墓から出て来られました。

それと同じようにヨナも古い自分が造り変えられて魚の腹の中からやがて吐き出されることになります。新しいものが生まれるためにこれほどの苦しみと恐怖を味わうことがヨナには必要だったのです。

そのようなことを聞いて、ある人は次のように考えるかもしれません。「ヨナが神の命令に従順であれば、これほどの苦しみや恐怖や危機を味わう必要はなかっただろう。」

しかし、人は真に追いつめられなければ、自分自身と向き合い、神と向き合うこともないということも私たち人間の現実なのです。

自分の存在の危機はそのまま放っておけば死と滅びに結びついてしまいます。しかし、その存在の危機の中で神に目を向け、神に助けを求めて叫ぶことができるならば、その存在の危機の時は恵みの時、再出発の時に変えられます。つまり、そこでこそ神によって新しい自分が生み出されてくるのです。人生の危機は神による自己再生の機会、再び新しい者として生まれ変わる好機にもなり得るのです。

2節に「自分の神」という言葉があります。神はイスラエルの民全体の神であられると同時に「自分の神」、「私の神」と言うことを許される一人一人の神でもあられます。

私たちは神を自分一人の神でもあるかのように捉え、神に向かって祈りを献げてよいのです。群れ全体の神、信仰者全体の神は私一人の神でもあられます。そのような強い結びつきを私たちは神との間に与えられているのです。

神は私たちが失われた者、滅びに陥る者となることをお喜びになる方ではありません。それゆえに、叫び求める者を、御手をもって守り、救ってくださるお方です。

ヨナには巨大な魚を備えて、彼の祈りに応えてくださいました。彼には海の中での魚が必要でした。私たちに対してはそれぞれに必要な、それぞれにふさわしい助けをもって神は応えてくださいます。

神は一人一人の声を聞き分けることがおできになります。それゆえに、神は一人一人に必要な助けを具体的に差し出すことができるお方であることを私たちは確信することができるのです。

祈りはいつでもどこでもできるものです。私たちは教会において、また礼拝や集会の中で祈りに導かれて神に心を向けることができます。また、主イエスが教えてくださった祈りを共に祈ることによって同じ一人の神に捕らえられた神の家族としての私たち自身を実感することができます。

しかし、祈りの場はそこだけではありません。私たちが身を置く所、生活のただ中、とりわけ自分の力ではどうしようもない困難や苦悩や様々な事態の中で、死と向き合う場面で、私たちは神を呼ぶことが許されています。

そのようなとき、私たちは祈りを諦めてしまうか放棄してしまうことが多いものです。嘆き、叫び、疑うことはあっても祈ることが少ないものです。けれども、そのようなときにこそ、神は「わたしを呼べ。わたしの名を呼べ」と言ってくださることを忘れてはなりません。

この神は、ヨナが乗り込んだ異邦人の乗組員たちの祈りにも応えてくださり、船を沈没から救ってくださいました。異邦人の乗組員たちの祈りにも応えてくださる神の恵みがここにあります。

海に放り込まれたヨナ、神に逆らい続けてこれ以上逃げられないところまで追い込まれたヨナ、そのようなときに初めて祈ったヨナの祈りにも神は応えてくださいました。思いがけない憐れみと恵みをもって神はそれぞれの祈りに応えてくださったのです。

その神が今は私たちの祈りを待っておられます。個人の苦悩、集団の苦しみ、世界の苦しみの中で真に祈る者を神は待っておられます。

ヨナは祈らなかったとき、苦しみが極限に達しました。それと同じことを教会はこの世界に引き起こしてはなりません。教会が祈らないことによって世界を危機に直面させてはならないのです。

教会は、祈る教会として、この世界を滅亡の危機から未然に防ぐ務めを与えられています。また、祈りを聞いてくださる神を人々に示すことによって、世界が祈りの世界となることに教会は仕えていかなければなりません。

 

この世界の人々の生と死、造られたものすべての生と死が教会と信仰者の祈りにかかっている、そう言っても言い過ぎでないことをヨナの祈りは私たちに示してくれているのです。