「主を畏れる者」 

                         ヨナ書1章710節 

                                                水田 雅敏

 

神の命令に逆らって逃亡するヨナの乗り込んだ船が大きな嵐に遭いました。船乗りたちが、船が沈まないようにそれぞれの信じる神に祈り、必死の努力をしているときに、ヨナは一人、神から逃れることができたと考える偽りの平安の中で深い眠りに落ちていました。

そこに船長がやって来て、「起きてあなたの神を呼べ」と促します。1章の6節です。自分の信じている神に助けを求めて祈れ、というのです。

そのとき、ヨナはどうしたのでしょうか。ヨナは祈ることを促されても、結局は祈らなかったと思います。というのは、ヨナが祈った、とはどこにも記されていないからです。それゆえ嵐は静まりませんでした。

そのために、遂に船乗りたちはくじを引いて、この災い、この危機が誰のせいで生じているのかを知ろうとしました。彼らはこの嵐を起こした者は誰かという、いわば容疑者探しを始めたのです。

7節にこうあります。「さて、人々は互いに言った。『さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう。』そこで、くじを引くとヨナに当たった。」

くじを引いた結果、それはヨナに当たりました。ヨナは知らないふりをしてくじを引いたのかもしれません。恐れと不安を持ちながらくじを引いたのかもしれません。あるいは自分に当たることはあるまいとたかをくくってくじを引いたのかもしれません。

私たちがここで思い起こす聖書の出来事があります。それは、主イエスが捕らえられたとき、大祭司の中庭に忍び込んでいたペトロが、人々から「あなたはイエスの仲間だ」と言われて、三度否認したあの出来事です。しかし、その偽りはすぐに明らかにされます。ペトロの偽りは既に主イエスによって知られていました。

覆われているもので明らかにならないものはありません。ましてや多くの人々を苦しみや危機に陥れた罪は、いつかは必ず明らかにされます。

8節にこうあります。「人々は彼に詰め寄って、『さあ、話してくれ。この災難が我々にふりかかったのは、誰のせいか。あなたは何の仕事で行くのか。どこから来たのか。国はどこで、どの民族の出身なのか』と言った。」

くじがヨナに当たったことを知った人々はヨナに詰め寄って、彼が何をしたのか、どういう人間なのかということを次々に問いかけて説明を求めます。嵐の舟の中であたかも小さな法廷が開かれている感じさえします。自分が何者であるかを隠そうとしていたヨナ、自分の真の姿を隠そうとしていたヨナ、その彼が、自分が何者であるかを明らかにするように迫られているのです。

私たちも自分のことに不安を抱くことがあります。私というものを隠して生きようとすることがあります。そのほうが平安だとしか考えられないときもあるかもしれません。しかし、それが許されない場合もあります。自分を明らかにしなければならない状況が生じることがあります。そしてむしろそのようになることによって、隠そうとしていた事柄の解決が与えられることもあります。

9節にこうあります。「ヨナは彼らに言った。『わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ。』」

ヨナは人々に詰め寄られて自分が何者であるかを告白します。

まず、「わたしはヘブライ人だ」と言っています。ヘブライ人というのは要するにイスラエル人ということです。それをあえてヘブライ人と用いる場合は、特に他の国の人と区別して自分が何者であるかということをはっきりさせる目的があります。

さらにヨナは「海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と言っています。「主を畏れる」というのは神を礼拝する、神を崇めるという意味です。

ヨナはこれによって、自分は造り主なる神を信じ崇めているイスラエル民族の一人なのだということを告白しています。あるいは造り主なる神を信じていると語ることによって信仰の告白をしているとさえ言えるのではないでしょうか。

もともとニネベに行って語るべきことを、ヨナは船の中の人々に向かって語らざるを得なくさせられました。ヨナは神の使命から逃れることはできないのです。

10節にこうあります。「人々は非常に恐れ、ヨナに言った。『なんということをしたのだ。』人々はヨナが、主の前から逃げてきたことを知った。彼が白状したからである。』」

ヨナは自分が信じている神から逃亡している身だということも人々に告白せざるを得なくさせられました。それを聞いたときの人々の驚きと怒りの表情が目に浮かぶようです。

このようにして、この海の嵐、船の沈没の危機の原因や背景が明らかにされました。ヨナが神に反逆したことから生じたものとして、人々はこの異変を理解したのです。

私たちはこのときのヨナに自分自身の姿を重ね合わせることによって、信仰者として生きるとはどういうことなのかを考えさせられるのではないでしょうか。

ヨナは自分は主を畏れる者だと告白しています。ヨナは信仰を失ったとか、神を信じない者になったというのではありません。彼はなおも神を信じています。その神について彼は人々に告白することもできています。しかし、その生き方は、ヨナが理解し、ヨナが知っている神に対してなすべきこととはまったく反対のものになっています。彼の信仰の知識と理解と彼の生き方との間には大きな距離があります。ヨナの理解は頭の中だけのものになっていて、彼の生き方とはなっていません。彼は神についての知識はあります。神についての理解も持っています。しかし、生き方自体はその信仰の知識や理解に裏打ちされたものになっていない、それがヨナの姿でした。

そして私たちは自分自身の中にヨナと同じものがあることを認めざるを得ない者として、今、神の前に立たされている思いがします。また、私たちは神の前に多くの矛盾と過ちと偽りを抱えた者としての自分を改めてここで覚えさせられます。

ある人が次のようなことを言っています。「私たちの生き方は、あの時、あのことさえしていなければ、こんなことにはならなかっただろうに、ということに満ちている。」

別の言い方をするならば、私たちの生き方は、あの時、あのことさえしていれば、こんなことにはならなかっただろうに、ということに満ちている、ということでもあります。

そのように「…さえしていなければ」とか「…さえしていれば」ということに満ちているのが私たちの日々の歩みです。そういう事柄を痛みをもって抱えている私たちです。そのようなことから来る苦しみと自責の念を抱えて生きている人は決して少なくないに違いありません。あるいはあらゆる人がそのような面を持っているとさえ言えるのではないでしょうか。

今からでも自分の生き方を変えることによって事態が変わるのであれば、私たちは誠実にそのことに取り組まなければなりません。しかし、私たちの手ではどうすることもできないものであるならば、すべては神に委ねるほかありません。

過ちを犯さない人生はありません。大事なことは、過ちに気づき、それを指摘されたときには心から悔い改めることです。

私たちの生涯は悔い改めの連続です。そのようにして神は私たちの生き方を繰り返し軌道修正されます。神による軌道修正は神の愛の表れであることを私たちは知らなければなりません。神が私たちに悔い改めをお求めになるとき、それは神が私たちを見放しておられないことのしるしなのです。

神が私たちに悔い改めをお求めになる時期や方法はそれぞれ異なっています。神はその人にふさわしい方法をお選びになります。

ヨナは、乗り込んだ船が嵐に遭い、くじが自分に当たり、人々から鋭い問いを投げかけられることを通して、人々の前に自分自身を表し、罪の告白をするに至りました。それはヨナに対して取られた神の方法です。それはヨナの今の生き方に修正を加えようとしておられる神の、ヨナに対する愛の表れです。神がヨナを見捨ててはおられない確かなしるしがそこにあります。それゆえ、この神の愛にいかに応えるかがこれからのヨナの生涯を決定することになります。

 

ヨナに対する神の関わりを通して、私たちも信仰者としての有りようや生き方が同じように神に問われていることを強く覚えさせられるのです。