「思い直される神」

                         ヨナ書3510

                                                水田 雅敏 

 

陸に戻ったヨナは神の命令を再び受けてニネベの都に向かって行きました。そして、神から語れと命じられた言葉を語りました。

神から命じられた言葉は4節にあります。「ヨナはまず都に入り、一日分の距離を歩きながら叫び、そして言った。『あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。』」

一日分の距離を歩いただけ、つまり一日分の働きをしただけで、ヨナが語った神の言葉の効果はすぐに表れました。

5節にこうあります。「すると、ニネベの人々は神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとった。」

断食をすること、粗布をまとうこと、これは悔い改めのしるしです。ニネベの人々の早い反応に私たちは驚かされます。

ここにヨナ書に一貫して流れている異邦人の信仰の篤さ、神への誠実さが強調されていることは確かです。異邦人の神への敬虔さを強調することによって、神の民イスラエルの人々の不誠実さや傲りに対する警告が発せられていることを、私たちは聞き取らなければなりません。

それと同時に、ここでは神の言葉が持つ力を確認することもヨナ書の意図にあると思います。神の言葉が語られるとき、その言葉の中に込められている神の意志が現実の出来事になる、その一つの典型的な例がニネベの人々に起こっていることを、私たちは知ることができます。神の言葉に秘められている力は人を大きく変えることができるのです。

ニネベにおいては、さらに驚くべきことが起こっています。

6節にこうあります。「このことがニネベの王に伝えられると、王は王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し」。

ヨナの宣教の言葉によって人々が悔い改めに導かれたことを伝え聞いたニネベの王は、「王座から立ち上がって王衣を脱ぎ捨て、粗布をまとって灰の上に座し」ました。これも悔い改めを表す行為です。王はヨナが語る言葉を聞くことによって自分自身の中に神によって裁かれても仕方がない罪や悪があることを認めたのです。滅びを予告するヨナの言葉を自分とは関係のないものとは考えずに、その言葉によって自分自身の真の姿を知らされたのです。

御言葉を聞くとき、一人一人の中に自分と向き合う出来事が起こる、そしてその出来事が新しい生き方をその人に始めさせる、このことは今日においても真理です。

ニネベの王は、このように自ら悔い改めただけでなくて、彼と大臣たちの名によって布告を出しました。

その内容が7節から9節に記されています。「王と大臣たちの名によって布告を出し、ニネベに断食を命じた。『人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない。食べることも、水を飲むことも禁ずる。人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ。おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ。そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない。』

この布告には幾つかの特徴があります。

第一の特徴は、7節ですが、断食とか粗布をまとう悔い改めの行為が命じられている相手が、ニネベの人々だけでなくて、牛、羊といった家畜にまで至っているということです。家畜までが断食し、粗布をまとって悔い改めを命じられるのは何か奇妙な感じがしますが、これは王が神の怒りの激しさをよく理解していることの表れと見ることができます。

第二の特徴は、8節の「ひたすら神に祈願せよ」との命令です。「祈願せよ」とは「叫べ」という意味を含んでいます。自分たちの罪を認め、悔い改めて、神に向かって叫び求めよ、王は人々にそう呼びかけています。ここにも自分たちの罪と悪を認めている王の姿が描かれています。それはへりくだって神を見つめるときにしか起こってこない事柄です。

第三の特徴は、そのあとに続く「おのおの悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ」との命令です。断食をするとか粗布をまとうというのは心の中の悔い改めを表に表す行為です。それは心の中の方向転換、神への立ち帰りのしるしです。それと同時に、王は「悪の道を離れ、その手から不法を捨てよ」との言葉によって、実際の生き方においても悔い改めること、方向転換することを命じています。生き方における新しさを命じているのです。

第四の特徴ですが、王の布告には重要な言葉が最後に付け加えられています。9節の「そうすれば神が思い直されて激しい怒りを静め、我々は滅びを免れるかもしれない」というのがそれです。「かもしれない」とあります。これは結果を神に委ねる謙虚さと神への恐れとを王が持っていたことを示しています。王は自分やニネベの人々に神から滅びを宣告されてもやむを得ない罪や悪があることを認めています。だからこそ、自ら悔い改めの行為をし、布告を出しました。しかし同時に、神は、もしかすると思い直されて、その大きな憐れみと愛とによってわれわれを赦してくださるかもしれない、とのいちるの期待と希望も捨てていないのです。

さて、結果はどうなったでしょうか。

それは10節に記されているとおりです。「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた。」

「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」とヨナを通して御自分の計画を告げられた神は御心を変えられました。

それはコロコロと考えが変わる神の気まぐれによるものなのでしょうか。そうではありません。神が思い直される出来事には一つの方向性、一つの原則があります。それは一言で言うならば、より多くの者を救う方向へと神の計画は変更されるということです。

神は悪や不法をお怒りになる方です。なぜなら、そのまま放っておくと人間が滅びてしまうからです。そのために、それ以上悪がはびこることがないように、罪の中に人が陥ることがないように、悪と罪の中にある人々に滅びを通告されます。そして、実際に裁きを行われることもありました。しかし、神はその本質において、愛であられます。

ここで思い起こす聖書の言葉があります。それはヨエル書の2章13節です。「『衣を裂くのではなく お前たちの心を引き裂け。』あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富み くだした災いを悔いられるからだ。」

「くだした災いを悔いられる」とあります。神は恵みに満ち、憐れみ深く 忍耐強く、慈しみに富んだ御自分の愛に基づいて計画を変更されることがあるのです。人間に対する慈しみと憐れみが神御自身を強く促して裁きの執行を延期させたり、取りやめたりすることがあるのです。

ニネベにヨナを遣わされたのも滅びを告げるためでした。しかし、それは裏を返せば、滅びから免れよ、という神の愛の命令を告げるためのものでした。滅びの宣言はそれを告げられている人々に対する御自分のもとへの招きの宣言であるとさえ言ってもよいのです。

私たちはそこに、神のなさることの不可思議さを思わされます。慈しみに富んだ神は、より多くの人を救うために怒りを起こされることがあり、また、同じ目的で裁きの決定を取り消されることもあるのです。

その不可思議な神の愛の業は、やがてイエス・キリストをこの世に遣わすことにおいて頂点に達しました。神が怒りを表されるのは、その怒りを現実のこととさせるな、という神の呼びかけなのだということを、私たちは心に刻みたいと思います。

神が怒りを表されることによってその怒りが静められることを、神は求めておられます。そこで神の怒りを引き起こしている人間の罪の悔い改めを、神への立ち帰りを、神は求めておられます。神が怒るとき、それはその怒りを早く静めさせよと神が熱い思いをもって私たちに語りかけておられる時なのです。

 

忍耐強い神の愛が今も私たちの世界を包んでいます。私たちは、神の忍耐強さがさらに持続されるように祈りながら、より多くの人が悪の世から離れて、神との結びつきの中で新しい自分を発見することができるように、和解と執り成しの務めに励まなければなりません。ヨナがあの短い言葉を語り続けたように、私たちも「神に帰れ」というこの一言を今の時代の中で熱心に告知し続けていきたいと思います。