「無力な神の愛の中へ」

                      ルカによる福音書151132

                                                 水田 雅敏

 

今日の聖書で語られている物語は昔から「放蕩息子の譬え」という名前で知られてきました。ところがよくよく注意して読んでみると、この物語は放蕩息子の譬えではないことに気づかされます。主イエスは弟息子が放蕩に身を持ち崩したという不道徳について語っておられるのではないのです。

ではこの物語の焦点はどこにあるのでしょうか。それは父親にあります。

11節にこうあります。「ある人に息子が二人いた。」

この物語は、放蕩息子の譬えではなくて、「ある人」、すなわち父の物語なのです。

当時、ユダヤにおいては、父は子に対して能力のある全能な存在、子をどのようにでも扱うことのできる存在だと考えられていました。しかし、本当に父が子を愛してその子に愛をもって接するときに、この全能な父が全く無力な者になるということをこの物語は伝えているのです。

12節の前半にこうあります。「弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。」

当時、ユダヤでは財産の分与は父が死んでからなされるものでした。子たちは父が生きている間はその財産についての権利を主張することはできなかったのです。それは法的に子に対する父の権威を確保するためです。

ですから、父親はこの弟息子に向かって、「そのことはわたしが死ぬまで待ちなさい」と言うこともできましたし、あるいは、「今の状態でお前がもし不満だというのなら、お前に日ごとに、あるいは月毎に与えている小遣いをもう少し増やしてあげてもよい」というように、父の権威を保っておくこともできたわけです。

ところが12節の後半にこうあります。「それで、父親は財産を二人に分けてやった。」

父親は、法的に権威づけられている自分の立場を、むざむざと放棄してしまうのです。

もしもこのとき、父親が法的な権威をもってこの弟息子の申し入れに対処したならば、この弟息子の体を強制的に繋ぎ止めることもできたでしょう。しかし、父親はそうしませんでした。また、このあと遠い所へ行って財産を浪費する世間知らずの弟息子には誰か人をやって引っ張って来る権威も、父親は持っていました。しかし、父親はそのような権威を用いませんでした。全能であるはずの父が弟息子の前にただ無力になって立ち尽くしているのです。

なぜそれほどまでにこの父親は弟息子に対して無力なのでしょうか。それは弟息子を愛しているからです。

ここには父親の激しい焦燥感と悲しみと身を焦がすような苦悩があります。父親は弟息子を自分の力で強制的に繋ぎ止めようとはしません。もしそのようなことをすれば、弟息子の心が父親から離れてしまうからです。

強制力によって人の心を繋ぎ止めることはできません。かといって、このあとこの物語が語るように、弟息子の言いなりになったところで、弟息子の心は父のもとにはありません。弟息子の心は弟息子の自由に任せられても、結局、父のもとには帰って来ないで失われたままなのです。ここにこの物語の悲劇性があります。

弟息子の父に対する要求は全く愚かなものでした。しかし、このような愚かさを父親は十分に承知していたはずです。また、父親はそのような愚かさを避ける力も持っていたはずです。しかし、彼は力によって弟息子の要求を退けることをしませんでした。また彼は法的に弟息子を縛りつけることもしませんでした。そのようにして父親の権威を行使しようとはしませんでした。なぜでしょうか。この父親は知っていたのです。父と子を本当に結びつけるものはこうした全能の力や強制力というようなものではなく、愛と喜びだということを。

愛と喜びは力や脅迫によっては決して生まれません。弟息子は自らの愚かさを身をもって知ることが必要だったのです。その愚かさのゆえに父がどれほど傷ついたのか、またそれゆえに父がどれほど無力になったのか、そしてまたその無力さの報いを父がどれほど耐え忍んだのかということを、弟息子は知ることが必要だったのです。つまり、父親の子に対する全能さというのは、力づくで縛る強制力の全能さではなくて、子への愛のゆえにどのような苦しみや悲しみにも耐えることができるという徹底的に無力になり得る全能さなのです。

主イエスはここで何について語っておられるのでしょうか。それは神についてです。このように、神は無力になることによって、まさしく全能のお方なのだと言われるのです。

全能なる神が無力だというのは何とも不思議な言葉です。論理的には矛盾した言葉です。しかし、この矛盾こそが私たち人間の人生に起こる私たち自身の罪や私たち自身の悲劇や私たち自身の悲しみといったもの全てを見ることのできる大切な視点だと言われるのです。私たちの愚かさについて、私たちがそこから新しいものを見出してくる原点になるのだと言われるのです。

17節から24節にはとても感動的な場面が語られています。父親と弟息子との間についに愛と喜びの回復があったのです。

父親は今までの苦しみや悲しみをすっかり忘れたかのように祝宴を始めます。しかし、この祝宴もまた一つの矛盾と言うことができます。

当時のユダヤの律法から言えば、このような息子を迎え入れることは許されないことでした。また、人間的に言っても、弟息子自身が言うように、もう息子と呼ばれる資格はないのであって、むしろ罰せられて当然でした。それがこの世の中における正しさとか義とかいうものであるはずです。そのように、父親は弟息子の前で正しくあるべきだったのです。

そういう意味で、父親はまことに異常な行動を取ったと言うことができます。この父親のように、帰って来た息子を祝宴をもって迎えるというようなことでは、およそ世の中の秩序というものは保てません。ところが、この父親は息子を拒否したり罰したりすることなく、むしろ祝います。この世の中の秩序や正しさを主張するよりも、父親は素直に回復された弟息子の生き返りを喜ぶのです。

なぜでしょうか。それは弟息子に対する愛ゆえです。ほかに理由はありません。すなわち主イエスはこう言われるのです。「神は単にあなたの悲しみや苦しみを味わわれるばかりではない。この父親がそうであるように、神はあなたの愚かさのゆえに無力になられ、立つ瀬のなくなってしまったあなたをこのように愛をもって迎え入れ祝われる方なのだ」と。

このように、この物語のテーマというのは、愚かにも家を出た弟息子が放蕩に身を持ち崩してその挙げ句の果てに悔い改めて帰って来たというところではなく、この愚かな弟息子の行為に、愛のゆえにただおろおろしている父親の無力さと苦悩と喜びにあります。

もし、この物語がそうではなくて、放蕩息子が回心したというようなことを、そして放蕩息子のこの愚かさをあなたがたは繰り返してはならないというようなことを、主イエスがここで語っておられるならば、もう一つの物語、すなわちもう一人の息子である兄のほうのまことに分別のある立派な生き方を主は称賛するという形にならざるを得ないはずです。

確かに29節にあるように、兄息子のほうは、「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」というまことに立派な生活を過ごしていました。そのように、兄息子は全く非の打ちどころのない息子でした。彼は財産を要求したこともありませんし、弟のように親に背いて家出をしようと思ったこともありませんでした。

もしも主イエスが、不道徳な生き方がいけないというようなことに力を置いてこの物語を語っておられるのならば、見てごらん、あなたがたはこの兄息子のようにお父さんのために生涯を棒に振るほど親孝行をするべきなのだとお話しになったはずです。

ところが、物語が続けられて兄息子が登場してくると、この非の打ち所のない孝行息子の前においても、またもや父親は無力になっているのです。そればかりか、この立派な兄息子から父親はその愚かさを非難されるはめに陥るのです。家出した弟息子が父に反逆したように、この立派な兄息子もまた父親に反逆するのです。

それゆえ、父親はまたもや無分別な愛の愚かさの中で身を焦がす思いを経験します。あの弟息子が出て行ったときに茫然と立ち尽くしていたのと同じように、父親は、口を極めて非難する兄息子の言葉の前で、家の中のあの祝宴をすっかり忘れて、再び困惑し苦悩するのです。

兄息子から見れば、そんな父親は何とも不甲斐ない父親でしょう。しかし、ここで起こっているのは愛の出来事であり、愛の事実です。

兄息子は道徳や論理ならよく分かったでしょう。しかし、彼は父親の心を分ろうとはしません。父親の心を理解しようとするそのような心の余裕がないので、かつて弟息子がそうだったように、やはりこの兄息子もまた父親の心から離れるのです。

父親は兄息子の激しい非難の言葉に対して、雇っていた僕たちを呼んで、無理にでもこの兄息子を家に引っ張り込むこともできたはずです。しかし、ここでもまた父親はそうしないで、兄息子の非難に対してただ呼びかけるだけです。

31節から32節にこうあります。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」

この物語は何を私たちに教えようとしているのでしょうか。それは神の呼びかけに応えようとしない人間の帰るところとはどこなのか、ということについてです。

この物語には結びの言葉がありません。結論のない物語になっています。どうしてでしょうか。この物語を語られた数週間後には、主イエスは十字架の上で人々の嘲りのうちに苦悩し、無力に死んでしまいます。つまり、この物語はそのままに、主イエスの十字架の叫び声そのものなのです。この父親の叫びはそのままに、声の荒い人々の非難と口汚い罵りの言葉を浴びながら十字架に死のうとされるあの主イエスの無力さに連なっているのです。この父親の無力さは神の無力さであると同時にまた十字架上の主イエスの無力さなのです。

帰るべきところに帰ることをせずに、本当に依り頼むところに依り頼まずに、まるで風見鶏のように、あるときは北に、あるときは南に、あるときは自らに依り頼んで、決して神の愛の呼びかけに応えようとしない人間の帰るところ、それは無力な神の立ち尽くすところ、十字架上の主イエスです。私たちが経験する私たち自身の愚かさや悲しみ、その結果がもたらすものの中で、まさに私たちは愛のゆえに無力に立ち尽くしておられる神、十字架上の主イエスに出会うのです。この物語は単なる譬え話ではありません。まさに主イエスご自身の物語、主の十字架の物語なのです。

主イエスは今、私たち一人一人に呼びかけておられます。不道徳で愚かさの限りを尽くした人たちのみならず、立派な見識を持つ人たちでさえも決して避けることのできない人間なるがゆえの弱さと愚かさに共感して、主イエスは今、呼びかけておられます。子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる、と。

 

私たちも私たちが立ち帰るべきところへ帰りたいと思います。私たちを新しい人として生き返らせることのできる主の十字架のもとへ、無力な神の愛の中へ。