「私たちを見守るイエス」

                       ヨハネによる福音書21114 

                                                 水田 雅敏

 

聖書を読みますと、どうしてこういうものが聖書の中に含まれているのだろうかと考えさせられてしまう文書があります。その一つはコヘレトの言葉です。コヘレトの言葉の中には突き放したような物の言い方がたくさん含まれています。神への信仰を語りつつ、人生は空しい、全ては空しいと語ります。死んでしまえば全てはおしまいだというような諦めとも思われるような文章が書かれています。虚無的と言えば虚無的です。

しかし、ひるがえって考えてみますと、こうしたコヘレトの言葉は多くの人々にとってはむしろ身につまされるような痛切な事実を語っているのかもしれません。聖書は現実の世界と歴史をリアルに受け止めて記録した文書を集めたものです。また、そうした中で生きてきた人間の姿をリアルに映し出す文書を集めたものです。さらにまた、そうした人間に対して神の力がどのように働いたかということを伝える文書を集めたものです。

そうである以上、ある時代のある人々が感じざるを得なかった空しい現実の姿、虚無的な物の見方を踏まえながら、なおかつそれでも神に目を向けようとした人々がいたことを伝えるコヘレトの言葉のような文書が残されたということは、ある意味で聖書というものの懐の深さを示しているのかもしれません。

そのようなコヘレトの言葉の特色とも言うべき死生観、生き死にに対する考え方を示す箇所の一つが9章です。

コヘレトの言葉の9章の4節から5節にこうあります。「命あるもののうちに数えられてさえいれば まだ安心だ。犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ。生きているものは、少なくとも知っている 自分はやがて死ぬ、ということを。しかし、死者はもう何ひとつ知らない。彼らはもう報いを受けることもなく 彼らの名は忘れられる。」

また、9章の9節にはこうあります。「太陽の下、与えられた空しい人生の日々 愛する妻と共に楽しく生きるがよい。それが、太陽の下で労苦するあなたへの 人生と労苦の報いなのだ。」

葬儀であれ、結婚式であれ、今読んだような言葉の一節を朗読することはまずあり得ません。ご遺族の方々を前にして、死んでしまえばおしまいだなどとお話しすることはあり得ません。また、結婚する二人に向かって人生がいかに空しいものであるかをお話しすることはあり得ないことです。しかし、それは私たちがキリスト者であり、キリスト教信仰を持っているからこそ言えることです。多くの人々にしてみれば、コヘレトの言葉に語られている言葉のほうが、本当はずっと現実的だと感じられるかもしれません。

コヘレトの言葉の9章の11節以下には次のような言葉も出て来ます。「太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競争に、強い者が戦いに 必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも 聡明だからといって富を得るのでも 知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにも臨むが 人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり 鳥が罠にかかったりするように 人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる。」

現実とはそういうものだ、思い通りにいかないものだ、だからこそ全ては空しいというのが、コヘレトの言葉の結論となるのです。

今日の聖書にもそういった現実を反映するような文章が出て来ます。

ヨハネによる福音書の21章の1節から3節にこうあります。「その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」

主イエスの弟子たちはこのとき、エルサレムからガリラヤ湖に戻って来ていました。主イエスの十字架による死、そして、そのあとの復活という出来事を体験した弟子たちですが、それでもまだ、このときの彼らには何かぼんやりとした雰囲気、ある種の虚脱状態に陥っているような印象が見受けられます。数週間、あるいは数日間のうちに体験した大きな出来事の数々が彼らを打ちのめし、これからどうしたらいいのか、何をなすべきなのか、考えがまとまらないといった雰囲気が感じられます。

「わたしは漁に行く」、そう言ってシモン・ペトロは立ち上がりました。もともとガリラヤ湖の漁師だったペトロです。ただ彼が漁師に戻るつもりだったのかどうかは分かりません。いずれにしても、人間は何かを食べなければ生きていくことはできません。とりあえず魚でも取ってこようという気持ちだったのかもしれません。

ほかの弟子たちも、とりあえずペトロについて立ち上がり、「わたしたちも一緒に行こう」と言いました。その中にはやはり元漁師だった者もいましたが、そうでない者もいました。彼らは皆、主イエスの弟子として一緒に生きていた仲間でした。「わたしたちも一緒に行こう」と言って一つの舟に乗り込んだのです。

3節に、「しかし、その夜は何もとれなかった」とあります。どんなに頑張っても何もとれない夜があるのです。これこそ人生のリアルな一面です。コヘレトの言葉にも記されているような、現実とはそういうもの、思い通りにいかないもの、だからこそ全ては空しいという結論に結びつくような場面です。

しかし、ヨハネによる福音書の出来事はコヘレトの言葉と同じ結論に至ったわけではありません。

4節の前半にこうあります。「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」

夜明けの光の中で、復活のイエスは弟子たちを見守っておられました。しかし、本当のことを言えば、夜が明ける前の暗闇の中でも、主イエスは弟子たちを見守っておられたのです。何もとれない夜の間も、弟子たちがそれに気づかない間にも、主イエスは彼らを一晩中、見守っておられたのです。

4節の後半にこうあります。「だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」

主イエスが見守っていてくれることが分からないとき、私たちに残されるのはコヘレトの言葉の作者が感じたのと同じ思いです。すなわち全ては空しいという思いです。これほど労苦しても何も得るものはない、これほど頑張っても人生には実りがない、全ては空しい。

しかし、ヨハネによる福音書が伝えていることは、どんなときでも主イエスは私たちを見守っていてくださるという事実です。私たちにとって人生の中でどんなに素晴しいことが起ころうと、あるいはどんなに悪いことが起ころうとも、いちばん大事なことはその出来事の背後にいつも主イエスが立っておられるという事実に気づくことなのです。

使徒パウロはローマの信徒への手紙に次のような一句を書いています。ローマの信徒への手紙の8章の28節にこうあります。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益になるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

この言葉は、聞きようによっては随分、楽天的な言葉とも感じられる一句です。しかし、この言葉を記したパウロという人がその伝道の生涯において味わった多くの苦しみ、精神的にも肉体的にも経験した苦しみのことを思うとき、そのような人物がその生涯の終りに近い時期に書いたこの一句は、決して安易な気休めといったものではなかったはずです。

何もとれなかった夜のような体験を何度も味わい尽くしたあとで、それでもなお、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益になるように共に働くということを、わたしたちは知っています」と書くことのできたパウロの実感こそ、私たちキリスト者が生涯を通して学ぶべき真実なのだと思います。それは人生とは決して空しいものではないことを宣言する言葉です。私たちが出会うこと、私たちが体験すること、その全ては、常に神にあって豊かな意味を持っているということを教える言葉なのです。

ヨハネによる福音書は復活のイエスが湖から上がって来る弟子たちのために炭火をおこし、魚を焼き、パンを用意してくださっていたと書いています。

21章の9節にこうあります。「さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。」

福音書の中には主イエスがいろいろな人々と食事をする場面がたくさん出て来ます。しかし、主イエスご自身が火をおこし、食べ物を料理したことが記されているのはこの箇所だけです。主イエスはそのようにして手ずから整えた食事を前にして、さあ来て、朝の食事をしなさいとおっしゃいました。そして、パンを取り、弟子たちにお与えになりました。ここでもまた主イエスは、エマオでの食事や最後の晩餐やそれ以前に何度も繰り返された食事のように、パンを裂いて弟子たちに分け与えられました。一日を生きるための糧を主イエスは弟子たちのために備えてくださいました。

人生を生きるための命の源を主イエスはいつも私たちのために備えてくださいます。何もとれない夜であっても、主イエスご自身が私たちのために朝の食事を備えてくださるのです。

今日ここに集う私たちもまた、この湖のほとりの弟子たちと同じように、主イエスに見守られている存在です。主イエスから命の糧をいただいている存在です。私たちはこの礼拝の場で、主イエスに見守られていることを思い起こし、主によって養われ、主に送り出されて、この世の旅路を歩むのです。

私たちの人生のあらゆるとき、あらゆる場面で、良いときにも悪いときにも、健康なときにも病んでいるときにも、喜んでいるときにも悲しんでいるときにも、私たちは測り知ることのできない神の恵みと憐れみの中に置かれています。その恵みと憐れみの中で、私たちはそれぞれの人生を主に従って歩んで行きます。

私たちは決して独りではありません。孤独ではありません。私たちは主と共に生きるのです。主によって結ばれた仲間たちと共に生きるのです。信仰によって生きるとき、私たちの人生は決して空しいものに終わることはないというこの事実を、今日私たちははっきりと心に刻みつけたいと思います。