「惜しまずにいられない神」

                         ヨナ書41011

                                                 水田 雅敏

 

ヨナ書は最後に神の言葉が語られることによって閉じられています。

神の言葉で締め括られているこの部分を学ぶにあたって、私たちはまずヨナの状況を確認しておきましょう。

ヨナは、悔い改めて、滅びから免れたニネベの都がこのままで終わることはないだろうと考えて、ニネベの東の方に仮小屋を建てて、都の様子を見届けようとしました。そのようなヨナのために、神はとうごまの木を生えさせ、木陰を作り、暑さをしのぐことができるようにしてくださいました。そのとうごまの木をヨナはとても喜びました。ところが、神は御自分で備えられたとうごまの木を、これもまた御自分で用意された虫によって食い荒らさせて、一夜にして枯らしてしまわれました。そのため、太陽の日射しがヨナの上に降り注ぎ、また東からの熱風もヨナに吹きつけて、彼は苦しみと暑さの中で死を求めて叫びました。

4章の8節の後半にこうあります。「生きているよりも、死ぬ方がましです。」

そのように死を願うヨナに神が語りかけられている言葉が今日の聖書の箇所です。

4章の10節から11節にこうあります。「すると、主はこう言われた。『お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。』」

ここでまず注目したいのは11節の前半の「それならば、どうしてわたしが」という言葉です。この「わたし」という言葉は神が御自身について強い調子で語っておられる言葉です。ヨナよ、お前は一本の木さえ惜しんでいる、それならば、ましてやすべてのものの造り主であり、あなたの神であるこのわたしが人の命を惜しまないでいられようかと神は語っておられるのです。ヨナが神の真の姿に心を向けることを求めておられるのです。

神はニネベの都について11節の後半で次のように語っておられます。「そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいる」。

「右も左もわきまえぬ人間」とあります。これは神の律法を知らない異邦人のことです。そのような人々は神の愛の対象の外にあるのではなくて、彼らこそ神の愛が向けられるべき人々なのだと言われるのです。

当時、ニネベの都の人口がどれくらいだったかは正確には分かりませんが、とにかく「十二万人以上」と言われるほどに多くの人口を抱えていました。その十二万という数字ととうごまの木一本という数字が対比されていることが分かります。

また、人間だけではなくて無数の家畜のことにも言及されています。

先に3章でニネベの都の悔い改めが語られたときにも家畜のことが出てきました。7節に、「人も家畜も、牛、羊に至るまで、何一つ食物を口にしてはならない」と命じられており、8節にも、「人も家畜も粗布をまとい、ひたすら神に祈願せよ」と命じられています。

このように、悔い改めることが家畜にまで言及されていたこととの関わりをもって、ここでも家畜について触れられていると考えてよいでしょう。神が造り主であられるならば、その愛は人間だけに限られるものではなく、動物にまで及ぶという示しがここに与えられているのかもしれません。また、一本のとうごまの木がヨナの労苦なしに生え育ったのに対して、無数の家畜が生まれて成長するためにどれほどの労苦が必要かということをも、神はヨナに考えさせようとしておられるのでしょう。そして、ここでも無数の家畜と一本のとうごまの木という数の対比がなされていることも明らかです。

十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間、そうであっても、神の言葉が語りかけられるならば、彼らは神のもとに戻って来ることができた人たちでした。物を言わない家畜であっても、これもまた造り主なる神の御手によって造り出されたものです。これらの人々も動物も皆、神の愛の対象なのです。それらが滅んでいくことをわたしは惜しまずにいられるだろうか、あなたが一本のとうごまの木を惜しんでいる以上に、わたしは十二万人以上のニネベの人々の滅びを惜しむのだ、無数の家畜が滅んでいくのをいとおしく思うのだと神は語っておられるのです。

これはヨナ書においてはヨナ個人に向けられたものとして書かれています。しかし、それと同時にヨナによって代表されるユダヤの人々全体に向けての神の語りかけとして書かれているということも、私たちは理解しなければなりません。

当時のユダヤの人々が抱いていた選民意識、ユダヤ人は神から選ばれた民だという意識はある面では間違ってはいません。しかし、それがいつの間にか偏った排他主義になっていました。そのことへの批判がこういう言葉を通してユダヤの人々全体に対して為されているのです。そのようなユダヤの人々に対して、異邦人をも包み含み、造られたすべてのものにまで及ぶ神の愛の広がりが強調されているのです。神の愛はすべてのものに及ぶ、先に選ばれたものだけではなくて、すべてのものに及ぶのです。これは私たちにも向けられているメッセージです。

そのことについて二つのことを通して考えたいと思います。

その一つは、私たち自身の中にあるヨナ的なものを取り除けとの促しがここにあるということです。信仰者の体質の改善が促されていると言ってもよいでしょう。私たちは、救いに値する者とそうでない者とを選り分けていないか、交わりに値する者とそうでない者との仕分けをいつの間にかやってはいないか、そういう自己吟味が促されているのです。

もう一つ考えておきたいことは、右も左もわきまえない人々や無数の家畜を愛される神の愛は、日々生きるのに困難を覚えたり、望みや力を失っている一つ一つの魂に対しても向けられているということです。神を既に知っている人に対して、神は愛を注がれます。それだけでなく、神をまだ知らない人にも神の愛は注がれます。神を知らない人々の命を惜しまれる神は、懸命に生きようとしながらもなお生きる喜びと意味を見出すことができないでいる人々の命を惜しまれるお方、それをいとおしく思われるお方です。日常の様々な葛藤と戦いに疲れ、重荷を抱えている人々にも、神は慈しみのまなざしを向けてくださり、生きよと励ましてくださるのです。

分かりにくい社会です。生きにくい社会です。誠実に生きようとする人が必ずしも報われることのない社会です。しかし、そこに、神は救い主イエス・キリストを送ってくださいました。それはまさにこのような世界に生きる私たち一人一人への神の愛のしるしです。そこに生きる私たちの命を惜しまれる神の愛のしるしです。

ここでヨハネによる福音書の3章の16節の言葉が思い出されます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

「永遠の命を得る」とあります。これは遠い先のことではなくて、今ここで真の命に生きることです。「一人も滅びないで」とあります。これは例外なくすべての人のことが神の御心の中で考えられているということです。

もう一つ思い出すのは、ヨナが神への抗議の中で告白している神の性格です。ヨナ書の4章の2節にこうあります。「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐強く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」

恵み、憐れみ、忍耐強く、慈しみに富み、裁こうと思っても思い直される方、これが真の神の姿です。

 

この神の恵みと憐れみと慈しみは私たち一人一人に今も差し出されています。それにお応えする道は、私たちが今与えられている命を、イエス・キリストを与えてくださった神を見つめつつ、精一杯生きることです。そのような私たち一人一人に、神は常に必要な助けと導きとを与えてくださるでしょう。そのような神が私たちの神としておられる限り、私たちの人生は生きるに値する人生なのです。ヨナ書を結んでいる神の最後の言葉は、私たちが神にあって喜びのうちに生きることへと押し出す力を持ったものとして、今も力強く働いているのです。