「大きな救い」

              ヘブライ人への手紙219

                                 水田 雅敏 

 

今日の聖書の2章の1節でヘブライ人への手紙の著者はこう言っています。「だから、わたしたちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。そうでないと、押し流されてしまいます。」

今と違って当時の舟は人の手で漕ぐか風まかせの帆をかけるかして舟を進めました。ですからよほど注意をしないと潮の流れに押し流されてしまって目的地に辿り着くことができませんでした。

私たちも何気なく海の上にボートを漕ぎ出してみると、表面からは見ることができない潮の流れに押し流されてしまって、あそこに行こうと思ってもなかなか行くことができないことがあります。

そのように、信仰生活には、真っすぐに進もうと思う私たちの歩みをぐいと引っ張ったり押したりして無理矢理進路を曲げる力が働いていて、それにうっかり乗ってしまうととんでもない所に行ってしまうというのです。

2節から3節の前半にこうあります。「もし、天使たちを通して語られた言葉が効力を発し、すべての違反や不従順が当然な罰を受けるとするならば、ましてわたしたちは、これほど大きな救いに対してむとんちゃくでいて、どうして罰を逃れることができましょう。」

この手紙が書かれた頃のユダヤの人々が共通の常識のように持っていた知識があります。それは、旧約聖書に書かれている戒めは天使が助けて人々に伝えられたものだというものです。神がモーセにお語りになったのでありますけれども、モーセがそれを聞き取って民に伝えて、民がそれを実行するために、天使たちが周りでそれを支えていたというのです。

ですから、ここで「天使たちを通して語られた言葉」というのは律法を指します。律法はそれに違反する者を罰します。この「違反」というのは、戒められていることが分かり、教えられたことをわきまえていても、意図的にそれに反することをしてしまうことです。「不従順」というのは、こうしなさいと言われても聞かないことです。神の言葉を無視してしまうことです。それが罰せられるのは当然だということであれば、ましてこれほど大きな救いが語られているのに、それに対して私たちは無関心でいてはいけないというのです。

この大きな救いを最初に語ってくださったのはイエス・キリストです。

3節の後半から4節にこうあります。「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され、更に神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられます。」

ある人がこういうことを言っています。われわれは神に救っていただくということをどう考えているか。われわれを家に譬えるとすると、その修繕を神にお願いするようなものだ。自分が家だとすると、どうも完璧な家ではない。雨漏りがしたり壁が崩れたりしている。自分ではどうしようもないので専門家に助けてもらわなければならない。それと同じように、救いというのは、神にお願いしてわれわれの人生の繕いをしていただくことだと思っているのではないか、というのです。

その人は、もしわれわれがそう思っているならば、神がなさろうとしていることについて勘違いしているのではないかといいます。どこを勘違いしているのでしょうか。その人は言います。神がなさるのはわれわれの古い家の繕いではなくて、われわれの家を全く新しくしてしまうことだ。さらにこう言います。どのように新しくするかというと、神はわれわれを宮殿のようにしてくださる。なぜかと言うと、神がお住みになりたいからだというのです。

この手紙が「これほど大きな救い」と言っていることがどういうことであるかが、ここでよく分かると思います。これ以上に大きな救いはないのです。どんなに罪にまみれた家であっても、神がそれを清めて住んでくださるのです。私たちの中に住んでくださるのです。

その救いをイエス・キリストが最初に語ってくださり、それを聞いた人々が私たちに確かなこととして伝えてくれました。そして、神がそれらの人たちの働きを支えてくださり、それぞれにふさわしい仕方で御自分の力を体験させてくださいました。そこにわれわれはもう一度立ち帰ろうとこの手紙の著者はいうのです。

5節以下には旧約聖書の詩編の8篇の言葉が引用されています。私たちが読んでいる詩編とここに引用されている詩編の言葉とには違いがあります。それは、この手紙の著者が読み、記憶しているのが詩編のヘブライ語のテキストではなくてギリシア語の翻訳だからです。ギリシア語への翻訳をした人たちの解釈が入って、私たちの読んでいるものとは違う文章になったのです。明らかに違っているのは、詩編は神の心に留められるのは私たち人間だと語っているのに、この手紙ではそれはイエス・キリストのことだと理解していることです。

7節以下にこうあります。「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものを、その足の下に従わせられました。『すべてのものを彼に従わせられた』と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません。」

先ほど、この手紙は「大きな救い」について語りました。そこにもう一度立ち帰ろうと呼びかけました。そこで言うのです。その大きな救いの内容はイエス・キリストが全てのものの支配者になられることだ。けれどもわれわれがそれを心に留めながら現実を見るとそうなっていない。すべてのものがイエス・キリストに従っている様子が見えてこないというのです。

この手紙が書かれた頃、キリストの教会はローマ帝国の権力の下で絶えず脅かされていました。何とか伝道をと思っても、厳しい状況の中でなかなか進展しません。なぜこのような世界が続くのだろうかという思いが人々の間で深まってきます。神に訴えたくなります。「神よ、まだ多くの人が救われていないではありませんか。われわれはイエス・キリストの支配をどこに見たらいいのでしょうか。」

私たちもまた訴えたくなるのではないでしょうか。「神さま、私たちが置かれている現実は厳しすぎるのではありませんか、いったいどこでイエス・キリストが全てを支配していると信じることができるのですか。」

そこでこの手紙の著者はこう言います。9節です。「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです。」

闇が続いているかと思われるような現実の中でわれわれが見ているものがあるといいます。それはすべての人のために死んでくださったイエスです。このイエスをじっと見つめよう、そこに心を注ごうというのです。

しかも、そこで絶望しません。そのイエスに栄光と栄誉の冠が授けられています。つまり、イエスは十字架において私たちを支配していてくださる方、ここにイエスの支配の特色があるということです。

詩編の8篇の語っている人間とはイエス・キリストのことにほかならないとこの手紙の著者は理解しました。

ある人はそこで興味深いことを語っています。この手紙は、詩編の8篇を変えて、これは人間のことではなくイエス・キリストのことだとだけ言っているのではない。イエス・キリストがそのようにしてくださったことによって、私たち皆が自分自身についてもう一度この詩編の8篇の言葉を新しい思いで口にすることができるようになった。「あなたが心に留められる人間とは何者なのか、またあなたが顧みられる人の子とは何者なのか、あなたは彼を天使たちよりもわずかの間低い者とされたが、栄光と栄誉の冠を授け、すべてのものをその足の下に従わせられました。」これはイエス・キリストのこと、しかしまたそれゆえに、これはまた私たちのこと、そう言えるようになったというのです。

 

イエス・キリストは私たちが嘆きの虜になっているところに来てくださいました。その時、私たちもまたそこから引き上げられてイエス・キリストと同じような栄光ある存在になったのです。もう誰にも束縛されない、いかなる罪、いかなる悪の力にも支配されないで立つことができるという望みがここに生まれたのです。私たちはそこで立ち上がることができる、立ち直ることができるのです。この手紙はそのような恵みの望みを語っているのです。