「兄弟イエス」

              ヘブライ人への手紙21018

                                 水田 雅敏 

 

このヘブライ人への手紙は私たちの救い主を何とお呼びするかということについて心を配って書いています。1章で用いられていた言葉は「御子」です。今私たちが読んでいる2章では「イエス」という名が登場します。やがて3章を読み進めると「キリスト」という称号が現れます。

なぜこの2章には「イエス」という名が用いられているのでしょうか。

私たちがすぐに思い起こすのはイエスの生涯を書いている福音書が「イエス」という名を多く用いていることです。それとよく似ています。この手紙はここでは私たちと同じように生きてくださった方、人としての名前を持ってくださった方としてイエスについて語っているのです。イエスは私たちと同じ存在になってくださったのです。

それは何を意味するのでしょうか。

それを最も明確に示しているのが11節の終わりの言葉、「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで」という表現です。

イエスが私たちと同じように名前を持ったのは何のためかというと私たちの兄弟になりたかったからです。しかもこの手紙は「兄弟と呼ぶことを恥としないで」と言っています。本当は恥ずかしがられても仕方がなかったのです。

この手紙の著者は自分がイエスの兄弟と呼ばれるのにふさわしくないことを知っていました。にもかかわらず、イエスのほうで「わたしの兄弟」と呼んでくださると感謝と喜びを込めて書いているのです。

考えてみると、私たちはイエスのことをいろいろに呼びますけれども、なかなか「私の兄弟イエス」とは呼びません。何か畏れ多いような気がします。そんなに親しくなってしまっていいのだろうかなどと思います。

「私の兄弟イエス。」この場合、言うまでもなくイエスは私たちの兄です。私たちは皆、イエスの弟であり妹です。イエスの、兄としての愛を受けているのです。そのような存在とされているのです。

この事実を説明するために、11節に「人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ている」と語られています。

「一つの源」とありますけれども、これは神を指しています。「聖なる者となさる方」とはイエスです。「聖なる者とされる人たち」とは私たちです。「聖なる者」というのは「神のもの」という意味です。イエスの兄弟とされることによって、私たちは神のものとされているのです。

この11節はその前の10節の言葉をもう一度言い換えているものです。「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。」

「万物の目標であり源である方」とありますけれども、これは先ほどの「すべて一つの源から出ている」と言って説明していたことと同じことです。結局はすべてのものは神から出て神に戻るのです。私たちはそれを目標として生きているのです。

この手紙の著者はこういうことをなさったのは神にふさわしいことだったと言っています。まことに神らしいことをしてくださったというのです。それは、この神が本物の神かどうか、神の名にふさわしいかどうか見ていようというようなところで判断しているのではありません。そうではなくて、自分自身に起こった出来事に驚いて、「ああ、こんなに素晴らしいことをしてくださる神だったのか。なるほど、神はこのような神だったのか」という思いを与えられているのです。

その神が御覧になっているのは「多くの子ら」です。すなわち私たちです。

神は私たちを「栄光へと」導かれます。この「栄光」は2章の9節で語っている「栄光と栄誉の冠」を受けたものです。イエスが身に着けておられる「栄光と栄誉の冠」と同じものを私たちも戴いているのです。それは苦しみに勝つ栄光、死に打ち勝つ栄光です。

その栄光を私たちに与えてくださるために、神はイエスを「完全な者」にしてくださいました。イエスを完全な者にしたというのは、イエスが不完全であるのを神が完全な者としたということではありません。そうではなくて、イエスが救いを完成することができるようにと神がしてくださったのです。

では、それはどのような歩みだったのでしょうか。

12節にこうあります。「わたしは、あなたの名を わたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します。」

これは旧約聖書の詩編の22篇の23節の言葉です。

ただ詩編の22篇といえば、私たちはまず何よりもイエスの十字架との深い結びつきを思い起こします。その1節に「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉があります。イエスは十字架につけられた時にこの言葉をご自分の叫びとなさいました。その死の苦しみがあったから、その死の苦しみを私たちと一緒にしてくださったから、イエスは私たちの兄弟になってくださったのです。

そして、そこでイエスは神の名を私たちにお伝えになりました。私たちは本来、神から生まれてきた者ですから、神の名を忘れるはずがないのに、それを忘れて勝手なことをしていました。そこに私たちの罪があります。私たちの死の苦しみがあります。神に捨てられた者としての苦しみがあります。そこに立ちながら、イエスは私たちに神の名を教えてくださったのです。神を紹介してくださったのです。

「集会」という言葉がありますけれども、これはギリシア語の「エクレシア」という言葉です。「エクレシア」は「教会」と訳されることもあります。教会はイエスに神を紹介していただいた者たちの群れです。イエスは私たちと一緒に神の名をほめたたえることを喜びとしてくださっているのです。

13節にこうあります。「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」。

これはイザヤ書の8章の18節の引用です。

イザヤ書においてはこうなっています。「見よ、わたしと、主がわたしにゆだねられた子らは、シオンの山に住まわれる万軍の主が与えられたイスラエルのしるしと奇跡である。」

「神の民イスラエルは望みを捨ててしまった。それでも神の言葉を聞こうとしない。その中で残されたわれわれのこの小さな群れが、なお神の民がここで生きているということのしるしとなり、奇跡となる。神の恵みを示すものとなる」というのです。

ヘブライ人への手紙の著者は、同じことをもっと深くイエスが語ってくださったというのです。ここではイエスが神に向かって言われるのです。「この教会に、わたしと、神がわたしに与えてくださった子たちがいます。」

私たちは孤立しているのではありません。イエスが共にいてそう言ってくださるのです。

イエスは私たちの兄弟となり、「イエス」というご自分の名を私たちに名乗ってくださいました。そして、私たちが名乗り出るのを待っておられます。いや、もう既にイエスのほうから私たちの名を呼んでいてくださいます。私たちはその事実を受け入れればよいのです。

 

イエスは、私たちを兄弟姉妹とすることを恥とするどころか、胸を張って、誇りをもって迎えて、「この教会においてあなたを賛美する」と神に言ってくださっているのです。