「希望に満ちた誇り」

              ヘブライ人への手紙316

                                 水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙の3章の1節から6節です。

ここでの一つの中心になる言葉は6節です。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」

「わたしたちこそ神の家」とあります。そのわたしたちが神の家であるということは「誇り」を持って生きることを意味します。一言で言えば、神の家としての誇りをもって生きようということです。

この「誇り」と訳されている言葉は、日本語ではそういうことはないと思いますけれども、ここに用いられているギリシア語からいうと、良い意味と悪い意味とがあります。もちろんここでは良い意味として訳さないわけにはいかないのでありますけれども、悪い意味にも取られる場合があるのです。そうすると、「高慢」とか「傲慢」と訳されることになります。

確かに、誇りに満ちて生きている人の姿と、高慢に生きている人の姿と、見たところ区別がつかないことがあるかもしれません。両方とも頭をしっかりと上げています。うつむいていて高慢だという人はおそらくいないでしょう。高慢な人は顔を上げています。胸を張っています。縮こまってはいません。しかし、その心は、真実の誇りに生きているか、高慢であるか、天と地の違いがあります。

いずれにしても、私たちが望んでおり心の底でいつも願っているのは胸を張って生きたいということです。いじけた心になりたくない、どんなことがあっても胸を張って生きたいと願い、それが満たされる、そこに信仰の世界があります。

ある人がこういうことを言っています。「キリスト者というのはもう自分を顧みない人になったということである。ただキリストだけを仰いで暮らす人になったということである。」キリスト者は毎日キリストを仰いで暮らしているというのです。そのように生かされている自分について、キリスト者は誇りを持って生きているのです。

この手紙は誇りだけでなく「確信」についても語っています。誇りに生きている人、胸を張って生きる人は確信があるからでしょう。その確信、確かな信仰とは何かと言えば、自分自身に起こっているキリストの御業を信じるということです。このことはどのような状況においても変わりのないことです。

私たちは人生において様々な悩みを経験します。自分や家族の病気のために私は果てしない労苦の中にあると思うことがあります。あるいはまた、肉体は健康であっても、もうこんな仕事は嫌だと思いながら、ほかに行くこともできない思いを抱くこともあります。ふと心の中で、こういう生活でなくて、もっと良い生活がしたいと思うこともないとは言えません。

この手紙はここでモーセに比べて主イエスはどういう方であったかを語ろうとしています。なぜここにモーセが登場してくるのでしょうか。この手紙の著者、またその著者が生きていた教会が、まさにあの出エジプトの民に似て、砂漠を歩いている思いを持っていたからではないかと思います。遥かに辿り着かなければならないところがあるのでありますけれども、それは少しも見えてきません。40年の間旅をしたのです。しかも、モーセはその途中で倒れてしまいます。道半ばで死ぬのです。その40年の荒れ野の旅に似た思いをこの手紙の著者も読む者も味わっていたのではないかと思います。

そして、その人たちにとって、あのモーセと同じように、いや、それよりももっと確かな確信と誇りを生み出す方として、主イエスの姿を仰ぎ見る思いがあったのです。

1節にこうあります。「だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。」

「考えなさい」という言葉があります。これは、ただ考えるというだけではなくて、「見る」という意味も含まれています。見えないものを見るのです。信仰の思いをもって見るのです。主イエスを仰ぎ見るのです。そこに胸を張って生きる道が開けてくるのです。

この主イエスを仰ぎ見ながら生きる道は私一人のものではありません。「天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち」とあります。私たちは一人で召されているのではありません。天に向かって共に召されています。共に等しく神に呼び出しを受けたのです。だからここにいるのです。皆、神に呼び出された仲間なのです。私たちは天に故郷を持っていることに気づきました。その故郷に向かっての旅を今一緒に続けているのです。

「わたしたちが公に言い表している使者であり、大祭司であるイエス」とあります。「公に言い表す」というのは信仰を明白に言い表すということです。しかも、ここでも一人ではありません。皆で公にあからさまに誰にでも聞こえるように信仰を言い表すのです。

その信仰の内容は何かというと「使者」である主イエスに対する信仰です。「使者」というのは神から遣わされた者のことです。何のために遣わされたのでしょうか。神の真理を伝えるためにです。

その主イエスはまた「大祭司」でもあられます。私たちを神に執り成してくださるのです。主イエスこそ私たちのための使者、私たちに神の言葉を語ってくださる方、私たちのために執り成してくださる方であることを皆で言い表すのです。

先ほど、誇りと高慢というのは見たところ区別がつかないといいました。同じように胸を張っているのです。同じように頭を高く上げているのです。誇りと高慢の違いはどこにあるのでしょうか。それは、神の御前に頭を垂れることを知っている人間が頭を上げている姿と、そのことを知らないで頭を上げっ放しの人間とでは、根本的な姿勢が違うということです。「なぜ、あなたはこんなに打ちひしがれても仕方がないと思うような状況でなお頭を上げて生きることができるのか」、そう問われて、「主が支えていてくださるからです。主が立たせていてくださるからです」と答えるのです。これはまことに素晴らしい恵みだと思います。

ここに語られている誇りの大切な特徴は希望に満ちているということです。希望が生み出した誇りだということです。それは、私たちが召されているという事実、私たちが同じ召しにあずかっている仲間であることにもう一度気がついて、私たちの中に立ち、私たちに仰ぎ見られることを喜んで待っておられる主イエスにのみ心を注ぐことです。

 

私たちはこうして共に励まし合って信仰の歩みを続けることができることを心から感謝したいと思います。地上で許される限り、同じ召しにあずかっている信仰の仲間としての神の民の歩み、神の家の歩みを、これからも豊かに生き続けていきたいと心から願うものです。