「最初の確信」

              ヘブライ人への手紙3719節 

                                 水田 雅敏

 

このヘブライ人への手紙は「手紙」と呼ばれていますけれども、誰が誰に当てて書いたものであるかは、その文章からははっきり読み取ることができません。そのために、この手紙は私たちが考える手紙というよりもむしろ説教と見なすべきだという理解があります。この手紙の著者はここで手紙を書くことよりも説教をすることを第一のこととしているというのです。そうだとすれば、そのようにしてする説教とは何なのでしょうか。

7節に「だから、聖霊がこう言われるとおりです」と書いています。そして、旧約聖書の詩編の言葉を引用しています。これがまず一つの説教の条件です。

神の言葉を語ります。その神の言葉は何よりもまず聖書の言葉です。私たちがしている通りです。しかも、その聖書の言葉を聖霊がこう言われるとおりと言って引用します。聖霊がこう言われる、あなたがたにこう語っておられる、それはこういう言葉だと言って、聖書を読むのです。

ここで引用されている最初の言葉は「今日、あなたたちが神の声を聞くなら」です。

この説教を聞いている人たちに「今日、神の言葉を聞きなさい」と言うのです。

その神の言葉はどこに聞こえてくるのでしょうか。この説教が終わってから、どこからか神の声が聞こえてくるから、それを静かに待っていなさいというのではありません。そうではなく、この詩編を説き明かしているわたしの言葉を神の言葉として聞きなさい、聞いてほしいというのです。この手紙の著者はそのような願いを込めて語っているのです。

この詩編の95篇が語っていることは何でしょうか。昔、イスラエルの民がエジプトで苦役を強いられていた時に、神はモーセを立ててそこから導き出してくださいました。そのあとイスラエルの民は約束の地に到達するまで40年の旅を続けなければなりませんでした。なぜ40年の旅を続けなければならなかったのでしょうか。それほど遠い距離ではないのです。エジプトを出てパレスティナの地に行くのですから。

40年はユダヤの人たちの年の数え方でいうと一世代だといわれます。40年経ったら一世代滅び、新しい世代が生まれるのです。どの世代が滅びたのでしょうか。エジプトを出た人たちです。彼らはモーセを初めとしてパレスティナに入ることができませんでした。それは出エジプトの出来事が単なるイスラエルの民の勝利の出来事でないことを意味します。

この詩編は次のような神の裁きの言葉で終わっています。11節にこうあります。「そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない。』」

この手紙の著者は、このようなことが起こらないために、われわれは今日、神の言葉を聞かなければならないというのです。

そのことについてこの手紙の著者は深い痛みを持っていたと思います。自分の説教を聞いている人たちが、例えば、自分の説教の語り方が下手だったために、聞いている人の心に届く言葉を語ることができなかったために、今日、神の言葉を聞くことができなかったら、どうしたらいいでしょうか。説教者はそういう厳しい思いを抱きつつ、祈りを込めて、今日ここで聞いてほしいと語りかけます。

しかも、ここで大切なことは「『今日』という日のうちに、日々励まし合う」ことです。13節にこうあります。「『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい。」

いつも新しい思いで神の言葉を語り、神の言葉を聞いて、さあ、神の言葉を聞こう、どうそあなたも聞いてほしいと励まし合うのです。

これがイエス・キリストを中心とする私たちの教会の姿です。

では、そこで励まし合う言葉、その急所はどこにあるのでしょうか。

13節に「かたくなにならないように」とあります。

「かたくなにならないように」と語りかけるのです。「かたくなになる」というのは何も受け入れなくなっている心です。神の言葉が入ってくる戸口を閉ざしてしまうのです。その心を柔らかくしなければなりません。

この詩編が語っていることの一つは荒れ野で旅をしている間にイスラエルの民の心が頑なになったということです。荒れ野は試みに満ちている所です。神の言葉よりもむしろ悪魔の声が聞こえる所です。例えば、荒れ野でおいしいものを食べることができなかった時、イスラエルの民は、「ああ、エジプトで食べた肉鍋のほうがおいしかった。あのほうがよかった。あのほうが快適だった」と思い始めました。その時、神の言葉を聞くことができない頑なな心が生まれたのです。

9節から10節にこうあります。「荒れ野であなたたちの先祖は わたしを試み、験し、四十年の間わたしの業を見た。だから、わたしは、その時代の者たちに対して、憤ってこう言った。『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』」

「荒れ野で試みを受けた」というけれども、実はイスラエルの民自身が神を験したのです。「この神は本当の神だろうか。この神のあとをついて行っていいのだろうか。」そして、「こんなのは神の道ではない。われわれは認めない。われわれの判断からいって、この神を神として認めるわけにはいかない」と言って退けたのです。

この手紙の著者は16節以下で、なぜ彼らは神の声を聞いたのに反抗したのか、なぜこんなことになってしまったのかと問うたあとに、19節でこう言っています。「このようにして、彼らが安息にあずかることができなかったのは、不信仰のせいであったことがわたしたちに分かるのです。」

「不信仰」という言葉があります。

私たちが不信仰、頑なな心にならないためにはどうしたらいいのでしょうか。

14節にこうあります。「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです。」

「最初の確信」という言葉があります。

ある人はこう言いました。「われわれが不信仰に陥らないためには洗礼を受けた時のあの確かさに戻ればいい。」

私たちが洗礼を受けた時は確信に満ちていたということでしょうか。そうではありません。ただ柔らかかったのです。私たちは洗礼を受けた時には柔らかかったのです。だから洗礼を受けたのです。もしかすると私たちは信仰生活の最初のところが一番謙遜だったかもしれないということになるかもしれません。

「最初の確信」は、その時、私たちが柔らかな心を持っていたからこそ与えられたものです。その最初に与えられた信仰を最後まで持ち続けよう、それを手放してはいけないというのです。手放したら神の恵みから落ちてしまうのです。

 

この手紙の著者がここで痛みをもって語りかけている言葉を、私たちもまた柔らかな心で聞き取りたいと思います。そして、互いに励まし合う交わりを日々造ることを、私たちの志としたいと思います。