「彼をじっと見た」

                使徒言行録3章1~10

                                 水田 雅敏

 

ペンテコステ、おめでとうございます。聖霊の導きが皆さんに豊かにありますように。

今日の聖書の箇所にはペンテコステのあとに起こった出来事が書かれています。

聖霊を受けた弟子たちは、そのあと、この世へと遣わされていきました。家の中でひたすら祈っていた彼らが、聖霊によって外の世界へと押し出されていったのです。

2章の14節以下にはペトロが人々に向かって「ナザレの人イエスこそ神から遣わされた方だ」と声を張り上げて説教をしたことが書かれています。あのペトロがです。

主イエスが逮捕された夜、ペトロは世の力を恐れるあまり、大きな過ちを犯してしまいました。イエスなど知らないと言って、イエスを否定してしまいました。そのペトロが、今は誰をも恐れることなく、まるで別人のように、イエスは主だ、イエスはキリストだと宣言したのです。福音を大胆に語ることができるようになったのです。

人間はこれほどまでに変われるものなのでしょうか。

確かにペトロは変わったのです。いや、変えられたのです。聖霊によって新しく造り変えられたのです。

弟子たちはこのように聖霊によって主イエスを証しする力が与えられたのですが、それと同時に、もう一つ大きな力が与えられました。それは人を癒す力です。

今日の聖書の箇所には弟子たちの癒しの働きが書かれています。

当時、エルサレム神殿の境内は祈る人、犠牲を献げる人などでいつも賑わっていました。その神殿には「美しい門」と呼ばれる門がありました。そこに生まれながら足の不自由な男が座っていました。毎日、門の所まで運ばれてきては人々に施しを乞うて、日々の糧を得ていました。

何人もの人がこの男の前を通りかかりました。ある人は彼のことなど目もくれずに通り過ぎて行きました。ある人はちょっと立ち止まり、また歩いて行きました。ある人はふところから幾らかのお金を取り出すと彼の前に置いていきました。それらはいつも繰り返される光景でした。

ところが、この日、この男は、これまでとは全く違った光景を見ることになりました。弟子のペトロとヨハネがこの男の前を通りかかかると、彼はいつものように施しを求めました。けれども、ペトロとヨハネはこの男の前を通り過ぎて行った何千、何万の人たちとは違った反応を示しました。

ペトロとヨハネはこの男をじっと見つめると、「わたしたちを見なさい」と声をかけました。

この男にとってこんなに自分を見つめる人はこれまでいませんでした。たいていは全く見ないか、少しだけ見るだけでした。だから、少し興奮しました。もしかすると、たくさんお金を貰えるかもしれないと思ったのです。

しかし、そこで聞かされた言葉はその期待を裏切るものでした。ペトロは言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」

「は?」と思ったでしょう。彼はペトロが何を言っているのか皆目見当がつかなかったでしょう。そもそもナザレのイエス・キリストとは誰かを知りません。その上、「その人の名によって立ち上がり、歩きなさい」などと言われたのですから、そんなことをすぐに信じられるはずがありません。むしろ、「わたしには金や銀はない」と言われて、がっかりしたでしょう。

ところが、次の瞬間、信じられないことが起こります。ペトロがこの男の右手を取って、引き上げると、彼は立ち上がって歩くことができたのです。

この癒しの記事で私たちが注目したいのは、この男と、ペトロとヨハネの視線が、非常に細かく書かれていることです。男はペトロとヨハネが神殿の境内に入ろうとするのを「見て」施しを乞いました。するとペトロとヨハネは彼を「じっと見て」言いました。「わたしたちを見なさい」。この男が何か貰えるかと思って二人を「見つめている」と、ペトロが福音を語り、彼の足を癒したのです。

このように、ここには「見る」という言葉が何度も使われています。これは、関心を向けられることを必要としている男の視線と、世に向かって遣わされた弟子たちの視線とが、ピッタリ合ったということです。

ほとんどの人々はこの男に関心を向けることがありませんでした。そこに彼が座っているということは知っていても、積極的に関心を持つ人はいませんでした。お金を与えた人はいたでしょう。しかし、彼の存在そのものに関心を向ける人はいませんでした。そのような中で、ペトロとヨハネは彼に関わろうとしたのです。

ペトロとヨハネはいつからそのような行動を取ることができるようになったのでしょうか。聖霊を受けてからです。

主イエスが天に昇られたとき、弟子たちが見つめていたのは天でした。1章の10節にこう書かれています。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。」

このとき、弟子たちの視線は上に向いていました。しかし、聖霊を受けたあとは、その視線を下に向けることができるようになったのです。

弟子たちが遣わされた場所、それはこの世でした。この世が関心を向けないところをしっかり見るようにと遣わされたのです。自分のことしか考えられなかったような彼らが他者の存在にまで関心を向けることができるようになったのです。

現代の社会の特徴を表すものに無関心があります。そこにいる人に関心を向けないのです。視界に入ってきてもそれを見つめようとしないのです。見つめることは物質的な豊かさを保証するものではありません。けれども、それは、その人の存在を認め、その人に関心を持ち、その人との関係を始める第一歩です。

イエス・キリストの名によって建てられている教会には伝道という使命が託されています。その使命のうち、御言葉を宣べ伝えることに力を注ぐことはとても大事なことです。けれども、それと同じように大事なこととして、教会にはこの世に対して癒しの働きを行うことも託されています。

もしかすると私たちはそのことに対して少し躊躇があるかもしれません。癒しの業というとすぐに奇跡のことだと考えて、そんなこと私にはできないと思ってしまうからです。確かに、教会は生まれながら足の不自由な人が立ち上がって歩くことを保証することはできません。それができる可能性はむしろ医学的な領域でしょう。しかし、それでもなお教会には癒しの使命が与えられています。それは、足の不自由な人を立ち上がらせるという現象としての癒しを保証することではなくて、そのように痛んでいる人々の存在に関心を向けることです。

教会がこの世から遊離して建てられているのではなくて、この世のただ中に建てられているということは、教会にそういう使命が与えられているということでもあります。そのために、教会の視線は天に向けられると共に、この世にも向けられるのです。特に人々の関心が向けられにくいところに教会は目を向けていくのです。そして、そこにも主イエスの恵みがあることを告げるのです。その人々のためにも主が働いてくださっていることを証しするのです。

私たちにいったい何ができるのかと自ら問いかけると、私たちにできそうなことは僅かなことかもしれません。しかし、この世に対して視線を向けることは誰にでもできます。主の名によって奉仕することはできます。

 

私たちはこの世に福音を伝える教会の肢として主に仕えていきたいと思います。今日その志を新たにしたいと思います。