「大祭司イエス」

               ヘブライ人への手紙72628

                                 水田 雅敏

 

このヘブライ人への手紙の7章では、旧約聖書の創世記の中に一度だけ登場してきて、あとに詩編でもう一度語られるメルキゼデクという人が重要な働きを果たしました。そのメルキゼデクのように、主イエスは大祭司の務めを果たしてくださったというのです。メルキゼデクと主イエスの姿とを重ね合わせるように、この手紙の著者は主イエスの大祭司としての御業を説きました。

今日の聖書の26節に「大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方」とあります。

口語訳聖書では「大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかた」となっています。

大祭司イエスこそわれわれの必要をふさわしい仕方で満たしてくださる方。それは長い間求めてやまなかったこの手紙の著者の心の渇きが満たされる思いであり喜びです。

それではいったいそこにどんな必要があったのでしょうか。どんな求めがあったのでしょうか。

大祭司イエスは私たちを神の前に執り成してくださいます。なぜ執り成してくださらなければならないかと言えば、私たちに罪があったからです。その罪はどうしても解決されなければなりません。赦されなければなりません。大祭司イエスはその必要を満たしてくださるのです。

罪が求めているわけではありません。私たちが罪に打ち勝つために、どうしてもしていただかなければならなかったのです。一言で言えば、主イエスの十字架の救いの御業が必要だったということです。

けれども、ここにおける「必要」というのはもう一つあったと思います。

27節に「まず、自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません」とあります。

主イエスが来られるまでは、ほかの大祭司たちが執り成しをしていたけれども、それは無意味だったとは、この手紙の著者は言っていません。罪を犯す民のために執り成しをする大祭司が必要だったのです。

そして、主イエスが来られた時に、真実の執り成しを、ただ一度ご自分をいけにえとする業によって完成してくださいました。それが、メルキゼデクのように王として、また大祭司として果たしてくださった主イエスの御業だったのです。

ところで、宗教改革者のマルティン・ルターが書いた『キリスト者の自由』という本があります。小さな本ですが、とても読み応えのあるものです。この『キリスト者の自由』の中にメルキゼデクの話が出てきます。

そこでルターはこう言っています。「ヘブライ人への手紙の著者はメルキゼデクになぞらえて主イエスの大祭司の業を語った。主イエスはメルキゼデクのように天において見えない務めを果たしておられる、その見えない務めは二つあった、一つは我々のために祈ること。もう一つは聖霊をもって我々を教えてくださること。」そしてこう言うのです。「この見えない務めを、見える具体的なこととしてこの地上で行っている人たちがいる。それが我々キリスト者だ」というのです。

私たちの信仰において困難なことの一つは主イエスが見えないことです。主イエスの姿がどこで見えてくるかと言えば、キリスト者の行動、祈り、言葉においてだというのです。

私たちは洗礼を受けて罪を赦されキリスト者になりました。その時、祭司の務めに任じられたのです。

ですから、私たちは自分の家でも祭司です。洗礼を受けていない家族のために執り成しの祈りをし、御言葉を伝える務めに生きるのです。これが万人祭司といわれるプロテスタント教会を形作る大切な基本原理になりました。

ルターはそのキリスト者である私たちを「小さなキリスト」と呼びました。家に帰って子供たちに、「お母さんが信じているイエスさまってどんな方なの?」と問われたら、いろいろな説明ができます。聖書の中の主イエスの話しもできます。しかし、もう一つの答え方は「イエスさまは私みたいな方」と言うことです。これは必要ならばいつでも言える答えです。素晴らしいことです。

けれども、そこで私たちがすぐに知らされるのは自分の至らなさです。主イエスの代わりが務まると考える人はおそらくいないでしょう。

聖霊が注がれて教会が生まれました。聖霊が注がれ、そこで教会を造った弟子たちは決して信仰的にすぐれた者たちではありませんでした。むしろ、逆でした。その彼らが、聖霊が注がれて、「このような自分たちのために主イエスは十字架につけられたのだ」ということを受け入れて、お互いのために執り成しの祈りを始めた時に、自分の愛が完璧だとか自分の祈りが完璧だなどと思う人はいなかったに違いありません。むしろ、そこで知ったのは自分の弱さだったと思います。だから、私たちは励まし合うのです。赦し合うのです。祈り合うのです。助け合うのです。補い合うのです。

この手紙の著者はそのような教会の交わりを知っている人です。そのような教会の交わりを造っていてくださる主イエスを仰ぎ見ながらこの手紙を書いているのです。

28節にこうあります。「律法は弱さを持った人間を大祭司に任命しますが、律法の後になされた誓いの御言葉は、永遠に完全な者とされておられる御子を大祭司としたのです。」

私たちの業はいつも不完全です。しかし、仰ぎ見る主イエスの御業は完全です。神がそれを全うさせてくださったからです。

最後にエレミヤ書の33章の10節以下を読みます。「主はこう言われる。この場所に、すなわちお前たちが、ここは廃墟で人も住まず、獣もいないと言っているこのユダの町々とエルサレムの広場に、再び声が聞こえるようになる。そこは荒れ果てて、今は人も、住民も、獣もいない。しかし、やがて喜び祝う声、花婿と花嫁の声、感謝の供え物を主の神殿に携えて来る者が、『万軍の主をほめたたえよ。主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と歌う声が聞こえるようになる。それはわたしが、この国の繁栄を初めのときのように回復するからである。万軍の主はこう言われる。人も住まず、獣もいない荒れ果てたこの場所で、また、すべての町々で、再び羊飼いが牧場を持ち、羊の群れを憩わせるようになる。」

荒れ地となった都、荒れ果てた神の都を見ながら、預言者エレミヤは、「この神の都が再び、回復される時が来る」と告げました。

それに応えて主イエスが来てくださった時、それはエレミヤが思い見ていたよりも遥かに深く、遥かに広い潤いをもたらす神の恵みの業でした。

聖霊が注がれた時、弟子たちは毎日悔い改めたに違いありません。ペトロがまずそうだったでしょう。「わたしは主イエスを捨てた者です。主イエスの十字架に最も鈍かった者です。」お互いに裁き合って、競い合って、天国での一番よい席を争い合っていた弟子たちです。彼らも頭を垂れて言ったでしょう。「人々の躓きにしかならなかったわれわれ、そのわれわれが、今ここで赦されている。赦されて立っているのだ。」そのような信仰を言い表わして、恵みに与り続けたと思います。

 

私たちも今ここで、自らの愛の貧しさを言い表す心を素直に持ちたいと思います。そして、お互いに赦し合い、祈り合い、受け入れ合う、それゆえに造られる教会であることを、喜びたいと思います。