「天にある大祭司」

              ヘブライ人への手紙816

                                 水田 雅敏 

 

ヘブライ人への手紙をご一緒に学んできて、今日から8章に入ります。

1節にこうあります。「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて」。

「今述べていることの要点」とありますが、これはどういうことでしょうか。

ある人はこう考えました。この手紙は7章において、旧約聖書に登場してくる不思議な祭司であるメルキゼデクと深い結びつきのある存在として、イエスについて語りました。その人が言うのには、「ここまできて、その話に一区切りつけたところで、この手紙の著者は、『これはこの手紙の読者に難しすぎたか』と思った。難しいと思ったらどうするか。『今まで話したことは皆さんに少し難しかったかもしれないけれども、要するに大事なことはこのことなのだから、よく心に留めてもらいたい』、そのような思いがこの『今述べていることの要点』という言葉に込められている」と言うのです。

そうなのかもしれません。

しかし、そのような説明を読んでいて、私はもう一つこう考えました。確かにこの手紙は当時の人々にとって難しかったかもしれません。けれども、読んでいる人は「難しいなあ」と思いながら、その難しいことを学ばせられている喜びをも体験していたのではないか。そういう意味でこの手紙は、学ぶとはどういうことか、何よりもイエスの御業について学ぶ喜びを、私たちに改めて教えてくれるものではないかと思います。

もちろん学ぶというのはただ知識が増えるということではありません。ここに聞こえてくる神の真理に耳を開く。身を委ねる。まなざしが上に向けられていく。天に向けられていく。

1節の言葉で言えば、「天におられる大いなる方の玉座の右の座」に着いておられる大祭司イエスに向かっていくのです。

大祭司イエスは天で何をしておられるのでしょうか。

2節にこうあります。「人間ではなく主」、これは主なる神のことですが、「人間ではなく主〈なる神〉がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられる」

「仕えておられる」とあります。これは、「礼拝しておられる」という意味でもあります。大祭司イエスは天にあって、一生懸命、私たちのために執り成しの祈りをしていてくださるのです。

私たちが天を仰ぐのは、そこで私たちのための御業が行われているからです。「ああ、あそこで私はもう救われている。自由にされている。ああ、あそこに既に私の平安がある」と知るのです。

ところで、天とはどこにあるのでしょうか。

宗教改革者のマルティン・ルターはこういうことを言っています。「我々のイエスは天に昇って神の右に座しておられる。その時に、我々はまるで我々の誰かが梯子をかけて二階に上がっていくように、イエスが梯子をかけて天にお上りになった姿を想像する必要はない。天にお上りになったイエスは我々を超えてあり、我々の中にあり、我々の外におられる。外にも中にも上にも下にもおられる。」

イエスはそのように私たちを超えて、しかし、私たちをしっかり捕らえて支配しておられるというのです。

3節から4節にこうあります。「すべての大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。」

大祭司は必ず献げものをして執り成しの祈りをします。「そうだとすれば、大祭司イエスも献げるべき献げものがあったはずだ。あったに違いない。その通りだった」と言うのです。

そのことの内容はここには語られていません。なぜなら、もう既に語られているからです。

7章の27節の終わりにこうあります。「このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」

イエスはご自身をお献げになりました。ご自身を献げて私たちの罪の執り成しをしてくださったのです。

8章の4節に「もし、地上におられるのだとすれば」とあります。

「イエスが地上においてほかの祭司の仲間入りをなさろうとするのであれば、ほかの祭司がいる以上、『お前なんか、いらない』と言って追い払われたであろう」と言うのです。

実際にそうでした。イエスが執り成しのために地上に来られた時、イエスは十字架につけて殺されてしまいました。裁いたのは大祭司です。祭司のボスです。「あなたは余計なことをする。地上の祭司の営みはわれわれのやることで十分ではないか。それなのにあなたは余計なことをする」と言ってイエスを殺しました。

そのように殺されたところで、イエスはまさに天の執り成しの業としてご自身をお献げになったのです。

不思議なことです。地上の祭司たちが捨てたのです。祭司たちに捨てられるということは呪われるということです。その最も恥ずべき呪いの死であった十字架の死を死なれたイエスにおいて天の業が地上に起こったのです。決定的に、ただ一度のこととして起こったのです。

天において今なさっている大祭司イエスの業は、その十字架におけるただ一度のいけにえの御業を根拠にして、私たちのために執り成しの奉仕を続けているに過ぎないのです。

5節にこうあります。「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、『見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ』と言われたのです。」

ここで引用されている言葉は出エジプト記の25章の最後の言葉です。シナイ山で神の示しを受けたモーセが下りてきて、初めはエルサレムに固定された神殿ではなくて、どこへでも運ぶことができる天幕、テントの形で聖所を作りました。それは本来、神のもとにあるべきものであって、モーセはそれを見ることが許されました。その型に従って造られるもの、それが神殿だったというのです。

イエスを退けるような過ちを犯した大祭司、そしてそのほかの祭司たちが仕えていたのもこの天における神殿を型取ったものでした。しかし、それが罪ある人々の手の中で引っ繰り返ってしまって、罪の業でしかなくなってしまったのです。祈りの家が強盗の巣にされてしまうということが起こっていたのです。

しかし、今は違います。

6節にこうあります。「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者になられたからです。」

これはどういうことでしょうか。

8章で語られていることはこの6節で終わりではありません。ここから7節以下の「新しい契約」についての言葉で埋められていきます。

8節の後半に「新しい契約を結ぶ時が来る」とあります。

「そう語った預言者の言葉がここで実現している」と言うのです。新しい契約が始まるのです。

なぜかと言えば、古いものは、ただ古いというのではなくて、全く役に立たなくなったからです。一つの言い方をすれば、祈りを重ねれば重ねるほど罪を重ねるよりほかないようなことだったのです。「そこにわれわれの大祭司イエスが来られた。その大祭司イエスの業はこれまでの大祭司の全ての業に遥かにまさるものだ。そこで、神の約束に根ざした新しい契約が打ち立てられる」、そう告げているのです。

ここで私たちがしている礼拝もまた天にあるイエスの御業を見せるものです。私たちはここでイエスを新たに知る喜びに溢れます。新たな信仰の知識を得ます。「ああ、私はまた新しい目でこの世界を見ることができる。新しい心で人と触れることができる」、そういう思いに満たされるのです。

 

主の日のごとに天におられるイエスの御業を仰ぎ見ることができること、こんなに幸いなことはありません。神の約束はここに成就している。このことを私たちは心から喜び、心から感謝したいと思います。