「新しい契約」

              ヘブライ人への手紙8713

                                 水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はほとんどが旧約聖書からの引用です。新約聖書の中には旧約聖書の言葉が引用されることが多いのでありますけれども、こんなに長く旧約聖書の言葉を引用して話を進めている箇所はほかにないのではないかと思います。そういう意味ではここは特別な所だと言うことができると思います。

ここで引用されているエレミヤ書の31章の31節以下の言葉はバビロン帝国によってエルサレムの都が廃墟となった頃に書かれたのではないかといわれています。紀元前597年頃のことです。預言者エレミヤはその廃墟の中にあって神の祝福が戻ってくる時のことを夢見ています。そのような危機的な状況において書かかれた言葉をヘブライ人への手紙の著者は思い起こしているのです。

このヘブライ人への手紙が書かれた頃もまた既にキリストの教会に危機が訪れていました。信仰が高揚していた最初の時期は既に過ぎ去っていました。礼拝に対する熱心も失われていたようです。そのような時にこの手紙の著者は預言者エレミヤの言葉を思い起こすのです。

ここに引用されている預言者エレミヤの言葉を一言で言えば、新しい契約を結ぶ時が来るということです。8節にその言葉があります。「新しい契約を結ぶ時が来る」。

問題はその現実が来ていないということです。その現実を人々が生きていないということです。ですから、ここで求められていること、それは神の言葉を聞き直すということです。神の言葉を聞き直す以外に信仰に立ち帰る道はないのです。

ここには「主は言われる」という言葉が何度も出てきます。主なる神が語られたのです。今も語っておられるのです。どこか遠い世界の言葉としてではなくて、激しい力を持った言葉として、この手紙の著者に聞こえたのです。彼の心を揺さぶったのです。しかも、預言者エレミヤとは違って、神の言葉がわれわれの主イエスにおいて実現したと信じることができる喜びの中でこれを書いているのです。

この新しい契約について預言者エレミヤが何よりも語っているのは神の御業です。主なる神が言われる、主なる神がこうすると言ってくださっているのです。イスラエルの民を非難し、イスラエルの民の罪を明らかにしながらです。

その罪はあのエジプトの地から導き出された時に与えられた契約を踏みにじってしまったということです。シナイ山で与えられた掟に背いてしまったのです。

その罪を明確にしながら、神は言われます。9節にこうあります。「彼らはわたしの契約に忠実でなかった」。そして、「わたしも彼らを顧みなかった」と言われました。

だから、エルサレムの都はバビロン帝国に蹂躙されているのです。

しかし、まさにそこでこう語られます。10節にこうあります。「それらの日の後、わたしが イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」。

新しい神の約束が与えられるのです。

それは次のような約束です。10節から11節にこうあります。「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれに書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで 彼らはすべて、わたしを知るようになり」。

このエレミヤの言葉について、ある人が、その人はキリスト者でキリスト教の学校の先生でありますけれど、こういうことを語っています。「教える必要はなくなる、先生は要らなくなるとエレミヤは語っている。私のような教師はもう要らなくなる。こんなに素晴らしいことはない。なぜなら、我々教師は知っている。教えることの難しさを。特にここで教えるのは主なる神を知ることだ。主なる神を信じて生きるようになるということだ。それを教えることの難しさを我々は嫌というほど知っている。自分の生徒に教えようとして、実際には教えることができない。」

私たちも同じ体験をしているのではないでしょうか。人に信仰を伝えることの難しさです。

どうしたらいいのでしょうか。あの人たちのことはもう知ったことではないと言うのでしょうか。

しかし、ここではむしろ逆です。教えなくても、誰もが主なる神を知るようになるという幻をエレミヤは見ています。小さな者から大きな者に至るまで、彼らはすべてわたしを知るようになるようにとわたしがしてあげると神が語ってくださっているのです。

10節に「彼らの心にそれを書きつけよう」とあります。

人々が遂に自分の思うところ、なすところ、直ちにそれが神の教えとなるような生き方をするようになる、心の中にある思いが神の教えそのものになるようになる時が来るというのです。

これが新しい契約の内容です。

そこでまた、ある人はこういうことを言っています。「それはいつのことか。いつこのようなことが起こるのか。」そう問うたのは牧師です。「自分自身も含め、自分の教会の現実を思い、牧師や信徒の言うことやることが皆、神の教えそのままであって、もう神のことを教える必要がなくなっているなどというところに立っている幸いな教会はまだない。」そう言うのです。「そうだとすれば、預言者エレミヤのこの言葉はまだ実現していないのか。この言葉はまだ夢だとしか言えないのか」と言うのです。

皆さんはどうお思いになるでしょうか。

そう問うてから、その牧師はこう言います。「我々も時に自分たちの心の廃墟に立つような思いをしながら、しかし預言者エレミヤと違って、そこでなお主イエスを思い起こすことができる。主イエスは神の教えがその心になっている唯一の方としてこの地上に来てくださった。」

そして、その主イエスがしてくださったことがあると言って、12節を示すのです。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない」。

このヘブライ人への手紙の著者が告げているのはまさにそのことです。

この手紙の著者がなぜ預言者エレミヤの言葉を引用したかといえば、何よりも大祭司イエスの話しをしたい、自分たちのために執り成しをし続けてくださっている主イエスの話しをしたかったからです。だから、ここに神の約束に根ざす契約があると言って預言者エレミヤの言葉を引用したのです。その言葉を語り直したのです。

「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない」。

妙な言い方でありますけれども、この新しい契約について語るほかの言葉のどれも実現しないと言って嘆くことがあっても、これだけは私たちはアーメンと言えるのではないでしょうか。

神は私たちの罪を思い出されることはないのです。それは私たちが手柄を立てたからではありません。主イエスがおられるからです。

この手紙の著者は13節に「年を経て古びたものは、間もなく消えうせる」と言い切っています。しっぽのようにまだ残っているかもしれないと思われるようなわれわれの罪はやがて消え去るというのです。

 

神は「彼らの心にそれを書きつけよう」と言われました。そうです、私たちの心にも主イエスの恵みは書きつけられたのです。誰がそれを否定することができるでしょうか。私たちはただそのことに根ざして、私たちなりに真実に生きればよいのです。ひたすら、神を信じて生きればそれでよいのです。そのように生きるようにされているのだから。主イエスがおられるのだからです。