「キリストの恵み」

              ヘブライ人への手紙9114

                                  水田 雅敏  

 

今日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙の9章の1節から14節です。

1節に「最初の契約」という言葉があります。

これは既に8章の7節と13節にも繰り返されていた言葉です。

8章においてこの手紙の著者は預言者エレミヤの新しい契約についての希望に満ちた言葉を引用して、イエス・キリストが来られることによってその新しい時が来たと語りました。

そして、その終わりの13節でこう断言しました。「最初の契約は古びてしまったと宣言された」。

「最初の契約」というのは神がシナイ山においてモーセを通してイスラエルの民にお与えになったあの契約です。その最初の契約と比べて、新しい契約では何が新しくされたのか、そのことを今日の聖書の箇所で改めて問うているのです。

何が新しくなったのでしょうか。

9章の1節にこうあります。「最初の契約にも、礼拝の規定と地上の聖所とがありました。」

この手紙の著者は礼拝の話を始めます。礼拝が新しくなったのです。

皆さんは時々こんなことを考えないでしょうか。今私たちはこの教会堂の中で礼拝をしていますけれども、この時に外の道を歩く人はどんな思いでこの前を通るだろうか。入る勇気はないし、入るつもりもないかもしれません。しかし、窓が開けられていると讃美歌が聞こえてきます。聖書の言葉が聞こえてきます。「いったいキリストの教会は礼拝といって何をしているのか。」

皆さんの中で、生まれて初めて教会の礼拝に出た時のことを思い起こしておられる方もあるかもしれません。礼拝に行かないかと誘われて、いったい何をするのだろうかと興味津々でついて来られた方もあるでしょう。戸惑いながらすべてのことを一緒に体験して、ああ、神を拝むということはこういうことかと驚いたり、疑問があったり、納得したりしながら帰って行かれたでしょう。

その礼拝の急所はどこにあるのでしょうか。

それは、ここで語られている言葉で言えば、その礼拝の新しさがどこに根ざすかということです。

1節から10節には最初の契約に基づくいわば古い礼拝がどのような場所で、どのようなものを用いてなされたのか、またそこでどのようなことが行われたのか、ということについて語られています。

ただこの手紙の著者はそのように語っておきながら5節の終わりにこう言っています。「こういうことについては、今はいちいち語ることはできません。」

これらのことについて知っていようがいなかろうが、ここでは重要な問題ではないというのです。

それなら、この手紙の著者は何に関心を注いでいるのでしょうか。

大切なことは、これらのことはすべて古びたものだということです。古びたものだと言いながら、しかし、実はここに一つの問題が生じるのです。

12節にこうあります。「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」

主イエスの救いの御業はすべて成し遂げられました。すべて済んでいるのです。このことは間違いのないことです。

しかし、同時に次のことも考えてみなければなりません。

9節にこうあります。「この幕屋とは、今という時の比喩です。」

「この幕屋」とは、8節までに書かれている、幕屋で行われている礼拝のことをも意味しています。古びた礼拝、8章の終わりでは「もう過ぎ去った」と言われている最初の契約に基づく礼拝です。

それをここで何と言っているかというと、「今という時の比喩だ」と言っているのです。昔の話だとは言っていないのです。今なお続いている人間の罪の姿がこの古びた礼拝によって譬えられているというのです。

それなら、最初の契約はまだ過ぎ去っていないことになるのではないでしょうか。主イエスの救いの御業はまだ実現していないことになるのではないでしょうか。

今言ったことをもう少し丁寧に理解するための鍵は9節と14節です。

9節にこうあります。「礼拝をする者の良心を完全にすることができない」。

これが最初の契約に基づく礼拝の足りないところだというのです。古びた礼拝をしていると立派な器具もあるし、大祭司も罪の赦しの儀式をするかもしれないけれども、良心が完全にはならない。神の御前に出るのにふさわしい良心とはならない。やましさがどこかに残ってしまうというのです。

それに対して14節ではこう言っています。「キリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせる」。

主イエスのもたらす救いは完璧だというのです。

今皆さんの良心はどちらでしょうか。私は神を礼拝するに足る完全な良心とされていると信じておられるでしょうか。そういう問題になると思います。

この手紙の著者が13章に渡って見つめ続けているもの、それは私たち人間の罪です。しかも、他人の心の中に巣くっている罪ではなくて、自分自身の良心を捕らえて離さない罪の深さを恐れているのです。恥じているのです。だから悩んでいるのです。

この手紙の著者は既に2章において、主イエスは勝利を得ているはずなのに、まだ万物は主イエスに従っているとは言えない、勝利の現実がまだ見えていないという言葉を呻くように書いた人です。

しかし、同時に、主イエスは既に実現している恵みの大祭司としておいでになったということも明らかです。今という罪の時の中に深くくさびが打ち込まれる、それが、主イエスが来てくださったということでした。

12節に「永遠の贖いを成し遂げられた」とあります。

われわれは主イエスの救いの御業によって罪を赦された、良心が清められた、それは永遠の救いだというのです。

私たちは永遠に、死ののちまでも清められた者として神の御前に立ち続けることができる者とされているのです。それがこの世で既に始まっている神の御業、主イエスの御業です。

それでも私たちは毎日毎日、罪を犯します。しかし、そこに主イエスの恵みがくさびのように打ち込まれて、「あなたは救われた。あなたは贖われた」と礼拝のたびごとに聞くことができるのです。この手紙の著者が語っているのはそのことです

11節に「更に大きく」とあります。

14節には「まして」とあります。

まるで子供が自慢話をするみたいです。精一杯手を広げて、「僕の持っている物はそんなに小さくないよ。もっともっと大きいよ」と誇らしげに自分の持ち物を誇るように、この手紙の著者は私たちに与えられている主イエスの恵みの大きさを、「こんなに大きい。われわれの罪よりももっともっと大きい」と喜びをもって語っているのです。

ここには8章の12節で引用されたあの預言者エレミヤの言葉が響き渡っているように思います。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない」。

これが私たちに与えられている信仰生活です

 

この恵みに応える生活を、私たちは日々、造っていきたいと思います。