「イエスを見つめながら」

                ヘブライ人への手紙1213

                                                                                                      水田雅敏

 

聖書はしばしば知恵を語ります。愚かでなく賢くあることを私たちに求めます。それは一つの言い方をすると、自分をいつもわきまえているということです。自分が今、どこで何をしているか、何をしなければならないのか、よくわきまえているということです。

このヘブライ人への手紙の著者は12章の1節で「自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こう」と語りかけています。

ここで前提となっているのは私たちが今走っているということです。しかも、「忍耐強く」とありますので、ここでの競争は短距離走ではなくて長距離走、マラソンのようなものです。40キロ以上もの距離を走るマラソンのように忍耐強く走り抜くことが求められているのです。

特に、この手紙の著者は、今自分が語りかけている教会の人たちが長い距離を走る道の半ばで気力を失い、疲れ果ててしまいそうになっているのを見ています。

3節に「気力を失い疲れ果ててしまわないように」とある通りです。

疲れることはやむを得ないことです。長い距離を走れば疲れてきます。問題は、そこで気力を失うということです。

皆さんも長い距離を走ったことがあると思います。その時、いちばん辛いのは、「いつやめてしまおうか」という自分の思いと戦うことです。「もうやめたくてしょうがない。歩きたくてしょうがない」。そこで大事なことは忍耐することです。信仰にとって大切なのは忍耐だということをこの手紙の著者はよく知っているのです。

忍耐することが大切だということはしばしば聖書から教えられます。ですから、説教において、「忍耐しよう」と呼びかけることも多いと思います。しかし、私たちにとって、「忍耐しよう」と言われることはあまり嬉しいことではありません。「忍耐しなさい」と言われて、パッと表情が晴れるという人はおそらくいないでしょう。「既に疲れているのに、『忍耐しなさい』などと言われると、余計疲れるような気がする」、そう思う人もあるでしょう。

しかし、まさにそこにおいて私たちはこの聖書の言葉を丁寧に読まなければなりません。

例えば、1節に「自分に定められている競争」という言葉があります。

「自分に定められている」と訳されているもとの言葉は、「自分の前に置いてある」という意味の言葉です。「自分の前に置いてある」ということは、言い換えると、「否も応もない」ということです。走るということはもう定められていることなのです。過酷といえば過酷な定めです。「走りたくないからやめよう」と言った途端に、そこで信仰の歩みが止まってしまうのです。

同じ1節に「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」とあります。

走ろうとすると裾が足もとに絡みついてくるのです。うまく走れなくなるのです。重荷がかぶさってくるのです。軽やかな足取りでなくなってしまうのです。

その重荷の一つの特徴は走ることをやめさせるところにあります。「走ることなんか無意味だ。もういい加減にやめたらどうか」と囁くのです。その囁きを振り捨てて走るのです。

そこでもう一つ考えなければならないことがあります。それは、これ以上走るのは嫌だと思うような自分の走りとこの手紙の著者が語っている走りとは同じものかということです。

マラソンでそんなことはめったに起こらないことのようでありますけれども、ランナーがコースを間違えて別の道に走り込んでしまって、慌てて戻って来る姿を見たことがあります。マラソンの場合にははっきり目に見えるコースがあって、そこから逸れることは珍しいことかもしれません。

しかし、私たちが走っている時にとても大切なことは、自分たちの走るコースがそんなにはっきりしたものではないということを知っているということです。もしかすると、全く誤っているコースのほうが、かえって正しいコースであるかのように勘違いしていることもあるでしょう。

ですから、自分が正しい道を走っているかいないか、いつも点検しなければなりません。間違っている道を走っているからこそ、無駄骨を折って疲れ果ててるだけかもしれないのです。

2節の「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」というのはまさにそのことを問うていると思います。

「信仰の創始者」というのは、「信仰の最初の人」ということです。信仰の道を切り開く人です。主イエスは私たちの先頭に立って走っていてくださるのです。

先頭に立って走って、それからどうするかというと、「お先に失礼」と言って姿を消すのではありません。「お前たちがついて来れなければ、わたしは先へ行くよ」というのではないのです。後ろを振り返りながら私たちがあとをついて行くことができるように導いてくださるのです。

私たちは自分の走っている道が主イエスのあとをついて来ているものであるかどうかを絶えず問わなければなりません。主イエスだと思っていたのに別のとんでもないものを自分たちの先達だと思い込んであとをついて行ってしまうこともあるかもしれません。主イエスの姿が見えなくなってしまっているということが起こるかもしれないのです。

大切なことは、いつも主イエスの背中が見えているということです。そうしないとゴールに辿り着かないのです。

ある人がこういうことを語っています。「自分は信仰を持って初めて目的を得た。信じることは目的を与えられることだ。主イエスを知って初めて、自分は目的に向かって歩くことができることを知った。それまでは自分の歩みには終わりしかないと思っていた。」

これは私たちにもよく分かることではないでしょうか。長くコツコツ働いて定年に達して、ああ、終わったと思うだけなのか。あとは何をしていいのか分からないという空しさに立つだけなのか。今ここで一区切りがついたけれども私にはまだはっきりした目標があると生きることができるのか。そう思って第二の人生を歩んでいて、病に倒れた時に、そこでもまた、もう、終わったという空しさの中で横たわるだけなのか。闘病生活に入って死を迎える時に、そこでさえも、ああ、これで自分の人生は終わってしまったというだけの死に方をするのか。それとも、死を超えてなお自分は完成に至るという目標を見ることができるのか。

「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめる」ということは、まさにそういうことなのです。

旧約聖書のエレミヤ書の31章の16節以下にこういう言葉が書かれています。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」

預言者エレミヤは、イスラエルの民が苦難に陥った時に、終わりではなくて、報いられる時が来ると語りました。

旧約の預言者は、これからこんな禍いがありますよということだけを告げるのが務めではありませんでした。もうこれで終わりだと思うところで、その目標を指し示すのです。

私たちの信仰のゴール、それは神の御前にあります。私たちはそこに向かって走るのです。走り抜くのです。

私たちの教会の先輩たちも、走り抜いて神の御もとに至りました。私たちのあとに続く者も、きっとそうしてくれるでしょう。

 

このような慰めに満ちた歩みを与えられていること、これにまさる幸いはないと思います。