「私たちを鍛えられる神」

               ヘブライ人への手紙12413

                                  水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙の12章の4節から13節です。

4節でこの手紙の著者はこう言っています。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」

これは私たちへの問いかけでもあります。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」この問いに私たちは何と答えるでしょうか。

「そんなことはない、私は今、血を流しながら罪と戦っている」と言うことができるでしょうか。それとも、この言葉にどこか心惹かれながら、結局はピンとこないままに次に移ってしまうのでしょうか。いったいこの言葉は何を意味するのでしょうか。

ある人は、「これは殉教を意味する。信仰のゆえに世の罪の力と戦って、自らも主イエスと同じように血を流して死ぬことを意味する。そういう戦いをあなたがたはまだしたことがないだろうとこの手紙の著者は言っている」と言います。

しかし、そのようなことを言われたとしても、私たちはどうしたらいいのでしょうか。「今の世の中においてそんなことは起こりっこない。昔こんな言葉を読まされた人たちは気の毒だ。今の仙台川平教会ではそんなことは考えられない」と言って、安心して先に行けばいいのでしょうか。

この手紙の著者は12章の2節でこう呼びかけています。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら走ろう」。

3節の前半ではそれを言い換えてこう言っています。「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」。

この手紙を読む者たちは気力を失いかけている、疲れ果てている。「もう走れない」と座り込んでいるのです。

その座り込んでいる人たちをこの手紙の著者は立たせるのです。ヘナヘナになっている人たちの手を取って、「ほら主イエスを見てごらん。そうしたら立てる」と声をかけるのです。

そして、その時に主イエスのことを3節の後半でこう言っています。「御自分に対する罪人たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。」

主イエスは血を流されました。十字架の上で死なれました。その十字架の主イエスの姿を見るならば、どんなに辛いと言ったとしても、あなたがたは立てる、立つことができるというのです。

そのことを知った時に初めて私たちは、この4節が殉教を求める言葉だったとしても、それを喜んで受け入れることができるようになります。自ら血を流すことができるようになります。それは、主イエスの十字架と並んで私たちの十字架を立てることではなくて、主イエスの十字架に支えられてこそ起こることなのです。

5節の前半にこうあります。「また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。」

「勧告」などという言葉を聞くと、役所の勧告のような堅いものを考えがちでありますけれども、これはそういうものではありません。ここで語りかけられているのは疲れ果てて座り込んでいる人たちです。「こんな果てしもないような信仰の戦いをするのはもう嫌だ」と嘆いている人たちです。その人たちを慰めながら立たせるのです。「あなたがたは御言葉を忘れているから立てなくなるのだ。慰めの言葉を聞き損なっているから立てなくなるのだ」、そう言うのです。

そこでこの手紙の著者は旧約聖書の箴言の言葉を引用します。

5節の後半から6節にこうあります。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」

ここに語られているのは神の鍛錬です。

それをこの手紙の著者は7節以下で丁寧に説き明かしています。

11節の前半にこうあります。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われる」。

この鍛錬がどういう形で起こっていたかは分かりません。実際には様々な形で起こると思います。私たち自身の生活の中において起こるのです。

例えば、家族の中に不幸なことが続く。思いがけない病気が連続する。あるいは、健康であっても家族の関係が乱れに乱れてしまって思うようにいかない。やっと幸せになったと思ったら足元から崩れていくようなことが起こる。家族の間ではうまくいっているとしても、世の中でうまくいかない。自分はイエスに教えられた道だと思っていつも柔和で優しくしなやかな心で人々に仕えているつもりなのに、それが次々と裏切られていく。こういう試練はいつでも起こります。

そして、その姿がどんなに異なっていても、そこに共通するのは悲しみです。希望が見えない悲しみ。独りぼっちになってしまっているような悲しみ。自分の誠意を込めた言葉が相手に通じない悲しみ。祈りを重ねてもその祈りが少しも聞かれないような悲しみ。本当はここでこういうことが起こればどんなに喜ぶことができるかと思う時に悲しみだけが自分の心を支配する辛さ。この手紙の著者はそれを知っています。

そして、その悲しみはすぐには消えないと言います。消えないところで、しかし、よく聞いてほしい、あなたの神はあなたの神であることをやめてはおられない。いや、むしろそこでこそ御自分を神として仰ぎ続ける心を求め、そのような心に向かってあなたを鍛錬しておられるというのです。

11節の後半にこうあります。「後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせる」。

この鍛錬は何のためか、なぜここでなお耐えなければいけないのか、私たちは繰り返しそう問わずにおれなくなります。

なぜ、何もかも放り出して逃げ出してはいけないのでしょうか。

それはここで道を踏み外すと真実の平和に満たされないからです。

12節から13節にこうあります。「だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」

13節に「踏み外す」という言葉が出てきます。これのもとの言葉は「関節が外れる」という意味の言葉です。だから、治さなくてはなりません。

どのようにして治すのでしょうか。

一般的に考えられることは、とにかく治ってから歩き出すことです。けれども、ここでの治され方は、いやされるように自分の足で歩くことが先です。まっすぐな道を歩き出してみて、ハッと気づくと治っているのです。何よりもまず、まっすぐな道に立つこと、その道を歩き出すことが大切なのです。

主イエスがその道を先に歩いていてくださるのでありますから、私たちはその主の姿を見失わないように歩き始めればよいのです。そうしたらいやされるのです。真実の平和が生まれるのです。

 

この手紙の著者は祈りを込めて語っています。「遂に死ぬまで血を流すほどの戦いをしないで済んだとしても、あなたがたはそれぞれに神に鍛えられているのだから、その鍛錬を喜んで受けたらよい。必ず真実の平和に至る道に生きることができる。だから、お互いに励まし合って生きようではないか。」ここに私たちの生きる道があると勧めてくれているのです。この勧めの言葉を心に留めて、この週、私たちは歩んでいきたいと思います。