「神に喜ばれるように」

              ヘブライ人への手紙122529

                                  水田 雅敏 

 

今日の聖書の28節の後半から29節でヘブライ人への手紙の著者はこう語っています。「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。実に、わたしたちの神は、焼き尽す火です。」

28節の後半に「仕える」という言葉があります。これは「礼拝する」という意味の言葉です。今私たちがここでしていることです。私たちは感謝と畏れと神に喜ばれる願いをもって礼拝をするのです。

言い換えるならば、私たちが今ここで正しい礼拝をしているかどうかをこの三つの言葉で吟味することができるということです。感謝があるだろうか、畏れる心があるだろうか、自分が喜ばされることではなくて神に喜んでいただくのだということにひたすら願いを込めて礼拝の姿勢を整えているだろうか、ということです。

25節の前半ではこう語っています。「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい。」

「語っている方」とありますけれども、これはイエス・キリストのことです。イエス・キリストの言葉を聞き過ごしてはならない、しっかり聞かなければならない、これを拒むような愚かなことをしてはいけないというのです。

拒んでいるか拒んでいないかは今私たちが礼拝しているこの場所で問われることです。単に自分たちのいわば心のたたずまいを自分の判断だけで計ることができるように、感謝しているかとか畏れているかというようなことを問うのではありません。感謝しないのはイエス・キリストの言葉を拒んでいることなのです。畏れを失っているのはイエス・キリストがしてくださっていることを拒否していることなのです。「イエス・キリストがしたことは結局は無駄だった。別にイエス・キリストによって支えられなくても私は礼拝することができる」という思いになってしまうということです。

28節の後半に「畏れ敬う」という言葉がありました。「おそれる」という字にはいろいろな漢字が用いられます。「おそれ」という言葉をひらがなで考えた時に漢字の何を当てはめるかと言うと、多くの人が思い浮かべるのは恐怖の「恐」という字でしょう。しかし、教会ではその字を用いないで、ここに書かれている字を用いることが多いと思います。

私たちが「神をおそれる」と言う時、神を恐がるわけではありません。神の前で委縮してしまうような恐怖の念に捕らわれるわけではありません。神を大切に尊びます。神を神として畏れます。しかし、そこには「本当に神を恐がらなくていいのか」という問いも生まれてきます。特にこの手紙の著者が29節に「わたしたちの神は、焼き尽くす火」と言った時に、これはやはり「神の火を恐がらなければならない」ということを意味するのではないかと思います。私たち自身が間違っていたら神さまに滅ぼされる、これは恐ろしいことです。神の裁きにわれわれは耐えることができるかとこの手紙の著者は問うているのです。。

「わたしたちの神は、焼き尽くす火」。この言葉は旧約聖書の申命記の4章の24節に書かれている言葉です。ただここで心に留めたいことがあります。それは申命記の4章の24節では「あなたの神」となっていることです。「あなた」というのはイスラエルの民全体のことです。ですから、「あなたの神」とは「あなたがたの神」ということです。けれども、「あなたがたの神」と語りかける言葉を受け止めて、この手紙の著者は「わたしたちの神」と言い換えるのです。

これは何でもないようで大きな変化です。それは私たちを滅ぼすような神を畏れながら、「この神こそわたしたちの神だ」と言えるようになるということです。そうでなければ、その神を礼拝する思いにはならないでしょう。その神から逃げてしまうでしょう。逃げ出さずに、なおここに立って、燃え盛る火のような神を畏れつつ、「あなたこそわたしの神」と呼ぶことができるのです。

なぜ、そのようなことができるのでしょうか。

この箇所の言葉で言えば、「感謝の念」を持っているからです。

礼拝は感謝から始まります。その感謝を失わないために、感謝から出て感謝に帰っていくために、私たちはこの会堂を出入りするのです。

その時の感謝とは何でしょうか。何を感謝するのでしょうか。

28節にこうあります。「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けている」。

「御国を受けている」という言葉がありますけれども、これは特別の言葉です。ある人が王の位に就く時の言葉です。誰か今まで王でなかった人が王になる時に、父から位を受け継ぐにせよ、何にせよ、要するにその国を受け取ることになります。その時に用いられる言葉なのです。

私たちがここで思い起こすのは宗教改革者マルティン・ルターの言葉です。ルターは『キリスト者の自由』という本の中でこういう言葉を書いています。「キリスト者はすべての者の王である」。キリスト者は何者にも支配されない、何者の奴隷にもならない、すべての者の王だというのです。しかも、その国に自分が住んで自由に生きることができるのですから、まさにそこで私たちは安らかな思いを得ることができます。その国は揺り動かされることはないというのです。

そして、そのことを語る前に、この手紙の著者は26節の後半から27節で神の約束の言葉を告げています。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう。」

神は地だけではなく天をも揺り動かそうと約束なさいました。

この所についてある人がこう言っています。「神は地だけではなく天をも揺り動かそうと約束なさった。しかしこれは約束だろうか。むしろ脅迫ではないか。こんな約束をしていただかないほうがいいとさえ思うのに、なぜこの手紙の著者は、これは神の素晴らしい約束だなどと言えるのだろうか。」

確かに、罪深い人にとっては、これは恐ろしいもの、その前にあっては怯えてしまうようなものでしょう。しかし、神に造られたものが全て揺り動かされて取り除かれてしまうその時、私たちが受け継いだ御国、イエス・キリストの御国だけは残るのです。私たちはそのような神の約束の中に立っているのです。

キリストの教会にはギリシア正教もあり、カトリック教会もあり、プロテスタント教会もあり、様々です。それらの教会を一つに結ぶ大切な信仰の言葉に「ニケア信条」というのがあります。ニケア信条は讃美歌2193番の4に載っています。ニケア信条は私たちが告白する使徒信条のように教会の教えとして重んじられてきたものです。

ニケア信条もイエス・キリストに対する信仰について語って、最後に、「生きている者と死んだ者をさばく」と言っています。ここまでは使徒信条とよく似ています。しかし、その最後にもう一つ付け加えます。「そのみ国は終わることがありません」と言うのです。イエス・キリストが造られる国は永遠であり、終わりを知らないのです。

前回、学んだ24節に「新しい契約の仲介者イエス」という言葉がありました。

私たちはなぜ礼拝をするのでしょうか。

それは神と契約したことだからです。

イエス・キリストは十字架の上で血を流して私たちの罪と戦い、私たちを清め、私たちを神と結びつけてくださいました。そのようにして私たちを捕まえてくださいました。

そこで何が生まれたかというと、私たちは無責任に生きるわけにはいかない、ということです。「神さま、ありがとうございます」と言ったら、そのあとは神に対する責任において生きます。人間の間でもそうです。「ありがとうございます」と言ったあとに、その人に対する感謝を忘れて生きるとすれば、そんな無責任な話はないということになります。

 

私たちは感謝の中で神と新しい契約関係に入りました。その約束を重んじて生きるのです。それが神に喜ばれる道、神に喜ばれるがゆえに私たちもまたすこやかに生きることができる道であります。