「信仰の更新」

              ヨエル書21218節 マタイによる福音書61621

                                                                                                               水田 雅敏 

 

今週の水曜日からレントに入りますので、今日はレントの歴史と意義についてご一緒に考えていきましょう。

レントは日本語で「受難節」と訳されますが、イースターまでの約1か月半の期間です。今週の水曜日からイースターの前日まで、正確には46日間なのですが、キリスト教会の伝統では一般にこの間の6回の日曜日を除いて数えるため、これを「四旬節」と呼ぶこともあります。

この40日という数は、主イエスがその宣教の初めにあたり40日間に渡って荒れ野で断食し、悪魔の試みを受けられたという聖書の記事に由来します。このレントの時期というのは伝統的に私たちキリスト者が主イエスの生涯、特にその受難の日々を覚え、主の十字架と復活に備える準備の日とされてきました。

歴史を振り返ってみると、初期教会においてレントはイースターに洗礼を受ける志願者たちが最後の準備を行うための期間として重んじられてきました。その時代には洗礼を希望する人々は数年間に渡って様々な信仰教育を受けることになっていました。その間に志願者は礼拝やいろいろな学び、そして実際の生活態度を通して訓練と教育を受けることになっていました。そうした長い期間を経て、教会がその人を兄弟姉妹として受け入れることを認めると、このレントの期間中に最後の重要な教育が授けられ、また悪魔払いなどの特別な儀式や断食をしながら、志願者たちはイースターの朝に行われる洗礼を待ったのです。

それよりも少しあとの時代になって教会への迫害が激しくなると、厳しい状況の中でキリスト教信仰を捨てる人々が出てきました。しかし、信仰を一度は捨てた人々の中にも、その後、それを後悔し、再び教会に戻ることを望む場合がありました。

教会はそうした人々に対して悔い改めを求めました。それは一定の期間に渡って公衆の面前で公の形で悔い改めの証しを立てるということを意味しました。教会に立ち帰ろうとする人々は悔い改めを表現する特別な衣服を身にまとい、断食などの禁欲的な行為を守りました。レントの期間がそうした悔い改めの頂点をなす時期となり、やがてイースターの日に洗礼を受けたキリスト者たちと共に、彼らもまた聖餐に与ることを許され、教会に立ち帰ることが認められたのです。

このような経過を経て、やがてレントは全てのキリスト者が自らの信仰を改めて見つめ直す時期となっていき、いわば信仰の初心に立ち帰る時として、皆がこの期節を過ごすようになっていったのです。

アメリカの合同メソディスト教会の礼拝式文の一つにはこのような伝統的な理解に基づいたレントの礼拝への招きとして次のような言葉が記されています。「主にあって愛する兄弟姉妹。代々の教会は我らの主の苦難と復活を記念するこの期節を深い献身の思いを込めて守って来ました。深い悔い改めと断食と祈りの時としてこれを守り、イースターに備えることが教会の習わしとなったのです。信仰に導かれた者がキリストの体なる教会に加えられるための洗礼の準備の時として、同時に信仰共同体から離れていた者たちが悔い改めと赦しを通して再び和解を与えられて教会の交わりへと回復される時として、この四十日間は大切にされてきました。したがって、全会衆はイエス・キリストの福音が告げ知らせる神の慈しみと赦しとを思い起こし、洗礼によって既に与えられている信仰を更新しなければなりません。そこで私は御名によってこの聖なるレントへとあなたがたを招きます。自らを顧み、悔い改めと祈りと断食と愛の献げ物によってこの期節を守りましょう。神の御言葉に親しみ、これを味わいつつ、切に祈りましょう。」

ここに出てくる「信仰の更新」という言葉に注目したいと思います。「更新」というのは運転免許の更新とかパスポートの更新という時の更新と同じ言葉ですが、もちろん内容は同じことを言っているわけではありません。

運転免許やパスポートには有効期限が定まっており、3年なり5年なりの期間が過ぎればその効力は失われます。それを延長するために更新をするのですが、場合によっては後日、その資格を取得し直すということもあります。

しかし、キリスト者にとって洗礼は生涯に渡って有効な免許であり、それどころか、生涯を終えたあとまでも有効な免許です。私たちは3年とか5年で洗礼の更新をするなどということはありません。

しかし、あえて運転免許との比較で言うならば、免許を持っていても、その後、全然実際の運転をしないために運転の方法や交通規則を忘れてしまったいわゆる「ペーパードライバー」と呼ばれる人々がいるように、残念ながら、洗礼を受けたという事実が教会の記録に残されているだけの状態になってしまっている人も存在するというのも事実です。

主イエスの恵みによって与えられる洗礼という免許が効力を失うことは絶対にありません。しかし、その免許を日常的に十分に生かしキリスト者として生活すること、生きた信仰を保ち続けることは私たちの責任であり、それは決して簡単なことではありません。

実際、自分自身を顧みれば誰もが納得せざるを得ないように、私たち人間は皆、自己本位であり、この世的な生き方に毒されており、神の御前で悔い改めることを嫌います。自分を見つめ直すことよりも自分を主張することに力を尽くし、神に罪を告白する祈りよりも神に何かを要求する祈りを繰り返しているのが私たちの実態ではないでしょうか。

初期の教会の人々をはじめ、代々のキリスト者は人間のそうした弱さをよく知っていました。だからこそこのレントの期間を重んじ、「洗礼によって既に与えられている信仰を更新しなければなりません」と呼びかけ、この期節に様々な営みを工夫しつつ守ってきたのです。

そうした工夫について言うと、例えば、レントの期間中の礼拝では、ハレルヤなどを含む喜びを表す賛美歌は歌わないとか、オルガンの伴奏をせずにアカペラで歌うとか、講壇には花を飾らないといった習慣を守るという例があります。また、消火礼拝といって、ちょうどアドベントの時と反対に、礼拝の際にローソクを一本ずつ消していくという礼拝形式も古くから守られているレント独自の習慣です。また、レント中は結婚式を行わないという伝統もありました。

これらはいずれも、普段いい加減になりがちな信仰生活を反省して、主の苦しみに与るという服従の信仰を新たに意識するための工夫なのです。一人ではなかなか実行しにくいことも、教会全体で皆と共に守るならばできるという場合もあります。レントはそうした意味で私たちが互いに励まし合いながら信仰の更新、すなわち初心に立ち帰るための時として大切に守る期節なのです。

ところで、キリスト教会はそのように礼拝や教会の全体に関わる工夫と共に、信徒一人一人がレントを守る面においてもいろいろな工夫を生み出してきました。すなわち今日の聖書のマタイによる福音書にもあるように、断食すること、また天に宝を積む行為としての献げ物や施しということが、このレントの期間には特に奨励されてきたのです。

断食は聖書の中で悲しみや反省を表現する行為として何度も出てきます。教会の歴史の中には主イエスの苦しみを多少なりとも自分自身の身をもって味わうことを願い、断食をはじめとする禁欲や節制を重んじる人々が初期の頃から存在しました。

しかしそうした志が一歩間違うと、ある種の自己満足や過激な修行にまで立ち至ってしまう場合もありました。こうした傾向を憂えてでしょうか、早くも5世紀にローマ教皇レオ一世は次のような言葉を残しています。「断食そのものが意味を持つ目的とはなり得ない。それは聖なる霊的な活動に参加するためである。我々が断食によって追求するものは貧しい人々に、より多くの施しができることである。」

この言葉は、断食とはこの行為の結果として節約したお金を貧しい人々に与えるための手段なのだ、ということを断言しています。言い換えれば、断食することと施し、断食と天に宝を積むこと、断食と隣人愛は、まさに表裏一体の事柄だというのです。自分自身を顧みることと他の人々、殊に苦しむ人々を覚えることは、切り離すことができないという事実を、この言葉は教えています。

レントを守る工夫は、個人により、また各家庭によって様々な形があると思います。大切なことは、主イエスの苦しみを覚え、主に従って生きる思いを私たちが今一度新たに確認するということです。大切なことは、自分が受けた洗礼を思い起こし、初心に立ち帰って信仰を見つめ直すということです。そしてまた大切なことは、自分のことだけでなく、より広い世界の中で様々な人々との交わりの中に生かされていることを覚え、僅かなりとも隣人への愛に生きる思いを新たに燃え立たせるということです。

 

こうしたことを覚えつつ、私たちはレントの期節を意義深いものとして過ごしていきたいと思います。