「いつも愛し合いなさい」

                ヘブライ人への手紙1316

                                  水田 雅敏 

 

ヘブライ人への手紙を読み進めて、今日から13章に入ります。

この手紙の著者は1節にこう言っています。「兄弟としていつも愛し合いなさい。」

これはキリスト者同士の愛を語る言葉です。この言葉は口語訳聖書では「兄弟愛を続けなさい」と訳されています。ここで大事なことは、この手紙の著者は兄弟愛に欠けている人たちに鞭を振るうようにして、あなたがたは兄弟愛が足りない、だからもっと深めなさい、もっと熱心になりなさい、と言っているのではないということです。兄弟愛はもうあるのです。十分そこにあるのです。それが消えないようにすればいいのです。それが留まり続ければいいのです。

このような兄弟愛はいつ始まったのでしょうか。この手紙の著者は2章において、イエス・キリストはなぜ、人としてお生まれになってくださったかということを丁寧に書いています。それは死の恐怖に捕らわれてしまっている私たちをその恐怖から解き放つためです。そのためにイエス・キリストは私たちの兄弟になってくださいました。

そのことを受けて3章の6節にこう書いています。「キリストは御子として神の家を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです。」

「神の家」、神の家族です。確信と希望に満ちた誇りを持ち続けるならば、私たちは皆、兄弟です。その確信と希望に満ちた誇りはイエス・キリストが御子として私たちを支配しておられるところにもう既にあるのです。

ですから、私たちがしなければならないことはそのように始まったイエス・キリストの恵みの火を消さないこです。私たちの教会に入って来る人が、ああ、ここには兄弟愛が消えないで生き続けているなあ、と感じ取ることができればいいのです。

そのような兄弟愛でありますから、「旅人をもてなすことを忘れてはならない」という言葉が当然生まれることになります。

2節の前半にこうあります。「旅人をもてなすことを忘れてはなりません。」

この「旅人」と訳されているもとの言葉は「よそ者」という言葉です。神の家族といえば私たちのことです。私たちのことだと思っているところに、よそ者が入ってくるのです。今夜泊めてほしい、と。そのようなよそ者を受け入れるのです。受け入れることができるような開かれた兄弟愛に生きるのです。

しかも、その理由づけがとても興味深いと思います。

2節の後半にこうあります。「そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。」

ここに語られているのは旧約聖書のアブラハムとサラの物語に出てくる話です。見知らぬ旅人と思って迎えた者が実は天使だったというのです。そのことを思い起こしながら、われわれはそのような天使をもてなす心でよそ者に出会うのだというのです。

もちろん、ここでは旅人が、ああ、ここに教会があった、この教会の人にもてなしてもらおうと入って来て、私は天使だから丁寧にもてなせ、などと言っていいということではありません。

むしろ、その旅人は天使の姿とは程遠い姿かもしれません。長旅のために汚れているかもしれませんし、見たこともない顔でありますから信頼して泊めていいのかどうか悩むかもしれません。しかし、天使を迎えるのとはまるで違うような状況で起こってくる愛の求めに応えるところで、私たちをもてなしてくださったイエス・キリストの神の愛に出会うことができるというのです。旅人をもてなすことによって、その愛を手で触れるように知ることができるのです。

そして、この愛はさらに広がっていきます。

3節にこうあります。「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい。」。

なぜ、牢に捕らわれている人たちや虐待されている人たちのことを思いやらなければならないかというと、「自分も体を持って生きている」からだといいます。

ある人がここの所を、「あなたも生身の人間でしょう?」と訳しています。それこそ天使ではないのです。その生身の人間が、力ある人々に捕らわれ痛めつけられている時にどんなに辛い思いをするか、あなたも知っているはずだというのです。

そして、おそらく、「自分も体を持って生きている」生身の人間ということを語ったからでしょう、この手紙の著者は人間が生身であることを知ることのできる生活の一つ、結婚生活の話をします。

4節にこうあります。「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。」

結婚して生きる人であれば、当然、結婚を重んじなければなりません。ところが、結婚している当人が結婚を軽んじるということが起こります。例えば、結婚した相手を自分勝手に縛りつけたり、放り出したりするのは、結婚を重んじていることにはなりません。結婚を尊ぶというのは結婚において結ばれた相手を尊ぶということです。

しかも、そこで「夫婦の関係は汚してはならない」とあります。「夫婦の関係」と訳されているもとの言葉は「夫婦の寝床」という言葉です。肉体的な交わりを意味する言葉です。その肉体をも含めた夫婦の関係を外から乱す者があってはならないし、また、自分たちも互いに姦淫の罪を犯してそれを崩してもならないのです。

「神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです」とあります。夫婦が互いに自分たちの結婚生活を尊ぶことができなかった時、神がお怒りになるというのです。世間が悪い評判を立てるなどというようなことではありません。神が介入してこられるのです。夫が妻を軽んじる時、妻を守る者として、妻が夫を軽んじる時、夫を守る者として、神御自身が登場して来られるのです。

それに続いて、生身の人間ならば誰でもどこか捕らわれてしまう金銭欲に執着しないようにということを教えます。

5節の前半にこうあります。「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。」

これがなかなかうまくいきません。周りの者を見回して自分より収入のいい人の話を聞けば不満を持ちます。その不満を持たないで、与えられている生活を受け入れようと勧めるのです。

しかも、ここでも興味深いことでありますけれども、金銭に執着しない生活を勧めるために二つの聖書の言葉を引用します。

5節の後半に引用されているのは申命記の31章の6節の言葉です。「神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。」

神のほうが、あなたを置き去りにすることはない、と言ってくださるのです。その言葉をきちんと聞き留めようということです。

そして、6節は詩編の118篇に出てくる言葉です。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」

同じ6節に「はばからず」という言葉があります。

これのもとの言葉は「勇気をもって」と訳すこともできる言葉です。私たちは勇気をもって次のように言うことができるのです。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう。」

 

私たちは毎週、この礼拝で賛美歌を歌いますけれども、それは何を意味するのでしょうか。私たちが、恐れから解き放たれている、勇気ある者として生かされている、このことを喜び歌うのです。イエス・キリストが私たちのところに来てしてくださったことが何を意味するかを、改めて深く知るのです。