「平和を追い求めよう」

                                          ヘブライ人への手紙121424

                                                                                                      水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヘブライ人への手紙の12章の14節から24節です。

14節でこの手紙の著者はこう語っています。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」

「平和」という言葉があります。これはキリスト者の間に生まれる平和の関係のことです。それをこの手紙の著者は「聖なる生活」と言い換えています。「聖なる生活」というのは、ここに「主を見る」という言葉がありますように、イエス・キリストが見えてくる生活です。平和があるところ、そこにはイエス・キリストがおられるのです。

なぜこのようなことを語るのでしょうか。

15節の前半に「神の恵みから除かれることのないように」とあります。

「神の恵みから除かれる」というのは神に背くことを意味します。平和を追い求めないことは神に背を向けるのと同じことなのです。

15節の後半ではさらにこういうこと語っています。「また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい。」

「苦い根」という言葉があります。

これは旧約聖書の申命記の29章の17節に出てくる言葉です。申命記の29章の16節から読みますとこう書かれています。「あなたたちは、彼らが木や石、銀や金で造られた憎むべき偶像を持っているのを見て来た。今日、心変わりして、我々の神、主に背き、これらの国々の神々のもとに行って仕えるような男、女、家族、部族があなたたちの間にあってはならない。あなたたちの中に、毒草や苦よもぎを生ずる根があってはならない。」

17節に「苦よもぎを生ずる根」という言葉があります。これがここでの「苦い根」です。

この「苦い根」は申命記の言葉で言うと偶像礼拝の心です。まことの神でない神々を求めてしまう心です。

しかも、申命記の18節には「もし、この呪いの誓いの言葉を聞いても、祝福されていると思い込み」とありますから、「苦よもぎを生ずる根」という言葉は神の呪いの約束の言葉の中の一節であることをも思い合わせなければなりません。しかも、「『わたしは自分のかたくなな思いに従って歩んでも、大丈夫だ』と言うならば、潤っている者も渇いている者と共に滅びる」というのです。

こうなりますと、単なる偶像礼拝というよりも、まことの神を侮っていることになります。「神さまはそんなことをおっしゃっても最後にはわれわれを呪ったり捨てるなどということはなさるはずがない。まあいいじゃないか。このところは神さまにちょっと失礼をして少々いい加減な生活をしたって構わないだろう。」そう考えて自分の頑なな思いに従って歩むなら、とんでもないことになるというのです。

そのように考えますと、ヘブライ人への手紙の著者が言う「神の恵みから除かれる」というのは、初めはそんなに深刻なことではありません。しかし、それを曖昧なままにしているといつの間にか自分だけではなくて周りの人にまで影響を及ぼすことになるのです。

それと重なるようにして、16節ではエサウの話をしています。「また、だれであれ、ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように、みだらな者や俗悪な者とならないように気をつけるべきです。」

これは創世記の25章の27節以下に書かれていることです。エサウが狩りに出て、お腹が空いて帰って来ると、弟のヤコブがおいしそうなご馳走を作っています。エサウは我慢できなくて、それをくれと言います。そこにつけ込んだヤコブは、兄さん、長男の権利をこっちに寄こしなさい、長男として受けるべき祝福がある、それをこっちに寄こしなさい、そうしたらこのご馳走をあげるからと言います。するとエサウはあっさりその権利を譲ってしまいます。そのあと気がついて涙を流しても事態は変わりませんでした。エサウは取り返しのつかないことをしてしまったのです。目に見えるものに心を奪われて、目に見えない祝福に心を注ぐことを忘れてしまったのです。

このようなことは信仰の歴史の初めから今日までずっと続いているものです。今、目に見える形で傷つくことを恐れて平和の道に生きることができなくなるのです。

18節以下には「近づいた」という言葉が繰り返されています。18節から19節、そして22節にその言葉が出てきます。「近づく」というのは神に近づく、神の恵みに近づくということです。つまり、「近づく」というのは「礼拝する」というのと同じ意味なのです。

この手紙の著者は平和を追い求める生活を勧めながら、真実に平和を追い求める生活とは何かと、だんだんその根を深く尋ねていきます。苦い根ではなくて甘い根、神の恵みに生きる根とは何か。その根っこはどこにあるか。それは礼拝の生活にあるというのです。

旧約聖書に書かれている神は「燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音」、一度聞いたらもう聞きたくないと思うような厳しさを持っている神でした。それはモーセでさえ脅え震えたほどのものでした。それに対してこの手紙の著者が見ている幻は、それとはまるで違います。

22節以下にこうあります。「しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、新しい契約の仲介者イエス」。

ここに語られている言葉はそれぞれに深い意味を持っていますけれども、今日はその中の一つだけ考えてみたいと思います。

23節に「天に登録されている長子たちの集会」とあります。これはどういうことでしょうか。

先ほど私たちはエサウの話を聞きました。ヤコブがエサウから奪った長男の権利、長子の権利というのは、要するに祝福の権利です。神の祝福を受け継ぐ者が長子なのです。

そこで、ここでこの手紙の著者は言うのです。「あなたがたは神の祝福を譲り渡さないようにしよう。この祝福に生き抜こう。それが神の恵みに生きるということであり、平和に生きるということだ。」

これは私たちの姿です。私たち皆が長子になるのです。

24節の後半にこうあります。「そして、アベルの血よりも立派に語る注がれた血です。」

アベルは兄のカインに殺されました。殺されて、その復讐を求め、大地に流されたアベルの血は叫び続けていると創世記の3章は語っています。そこで何を叫んでいるのでしょうか。「神よ、仇を取ってくれ」ということです。そういう意味では、アベルの血が大地に注がれたのは呪いを意味するのです。人間は皆、互いに平和を造ることができず、結局は兄弟殺しをしてしまうような呪われた血を持っているとしか言えないのです。そのアベルの血よりも遥かに立派に語る、遥かに尊きことを語る、遥かに値高きことを語るイエス・キリストの血が十字架の上で注がれたのです。

「平和を追い求めよう」という言葉を聞く時に、私たちはつい言い訳をして、「そんなことは無理だ。そんな努力をしたって無駄だ」と言ったりします。それには一つの理由があります。それはお互いに信頼できないということです。長い人生の中で傷ついて、くたびれ果てて、人を信頼することができなくなっているのです。

そこでこの手紙の著者は言うのです。「われわれにとって大事なことは十字架のイエス・キリストを仰ぎ続けることだ。あの人もこの人もイエス・キリストの血の中で既に聖められ、恵みの中で生き始めているということを信じよう。そこでこそ真実の赦しが生まれる。真実の平和が生まれる。」

この喜びを知る時、私たちもまたこの世にあって傷つきながらも立つことができます。立ち上がることができます。

  私たちすべての者がこの祝福に与り、恵みから除かれることのないように、共に主を仰ぎ続けていきたいと思います。