「御名をたたえる唇の実」

              ヘブライ人への手紙13716

                                  水田 雅敏

 

今日の聖書の15節から16節でヘブライ人への手紙の著者はこう語っています。「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。」

このヘブライ人への手紙はもともと説教としてなされたものがここに記されたのではないかと考えられています。教会の礼拝でなされた説教がここに書かれているのです。その頃の礼拝がどのようなものだったかはよく分かりません。確かなことは歌を歌ったことです。そこで、なぜわれわれは歌を歌うことができるのか、歌わずにおれないのか、ということをこの手紙の著者は明らかにするのです。

この歌は何よりも「賛美のいけにえ」だと言います。「いけにえ」という言葉はそれだけを取り出すとあまり良い響きを持っている言葉ではありません。あの人は誰々のいけにえにさせられた、などと言えば、大変残酷な話です。生きている者が犠牲とされ献げものになってしまいます。もちろん、ここでは死とか殺されることが意味されているのではなくて、「いけにえ」というのは「命ある供え物」という意味です。生きている供え物です。それを神に献げるのです。

ここで大事なのは「イエスを通して」という言葉です。ちょうど、祈りを「イエスの御名によって」と言って結ぶように、「イエスを通して」生きた供え物を献げるのです。イエスを通して、すなわち主イエスに清めていただいて初めて生きた献げものとなるのです。

12節にこうあります。「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。」

主イエスは私たちを「聖なる者」としてくださいます。それを今の関連で言うなら、私たちの賛美の歌もまた主イエスの血によって清められるから聖なるものになるということです。そのために主イエスは門の外で苦しみに遭われた、十字架につけられたのです。

この「門の外で」の「門」というのは、どこかの屋敷の門ではなくて、町を囲み、町を造っている城壁の中に造られている門です。古代の大きな町は敵の襲撃に備えて城壁で町を囲まなければなりませんでした。出入りすることができるようにその城壁に門を造るのです。

当然そこには番兵が立ちます。そのことによって町の中と外とが区別されるのです。人々は城壁の中で生きています。門の外は自分たちの生きている所とは別の所です。罪を犯して門の外へ追放されることもあるでしょう。あるいは人が死ぬと、死は汚れと考えられていましたから、門の外に運び出されました。ですから、墓地は門の外にありました。

そしてもう一つ、犯罪を犯して死刑に定められた者は門の外で処刑されました。主イエスは門の外で十字架の上で死なれました。血を流して死なれました。その血が私たちの歌を清めてくれるのです。

「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう」というこの15節の言葉には、旧約聖書の詩編の50篇の響きがあると言われます。詩編の50篇の14節にこうあります。「告白を神へのいけにえとしてささげ いと高き神に満願の献げ物をせよ。」

神がイスラエルの民に真実の告白をお求めになったのです。

ヘブライ人への手紙の著者が語っている「賛美」というのは「告白」という意味をも持っていると多くの人は指摘します。神に対する信仰をはっきり言い表わすのです。「神を信じます」と言わないで、神を賛美するだけということはあり得ないからです。その「神を信じます」と告白する心に変えてくださるのは主イエスです。私たちの心に信仰が生まれるのです。

11節にこうあります。「罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。」

この手紙の著者はこれまで何度もしてきたように旧約聖書を開きます。この場合はレビ記の16章です。レビ記の16章には罪の贖いの儀式が丁寧に書かれています。この時、一年に一度、民の犯した全ての罪の贖いをするために、大祭司は神殿のいちばん奥に入って雄牛の血を注ぎます。血を取ったあとの肉は外に捨てられ焼かれます。その肉にすべての者の罪が染みついていて汚れていると考えていたからです。

考えてみれば、おかしなことです。その牛は自分たちの罪を負わせたものです。それを汚らわしいといって捨てるのです。しかし、この手紙の著者は、この牛と同じところに主イエスが立たれたのだというのです。このレビ記の話を思い起こさせて、あの牛は汚れている牛だから手を出してはいけない、とあなたがたは言うでしょう。その牛のように、主イエスは罪人として門の外で苦しみに遭われたのだ。それは誰のためか。われわれの罪のためだ。神を神としない罪のためだというのです。

13節にこうあります。「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。」

この「宿営」というのは、いわば私たちが生きている所、生活している所、頑なにしがみついている所です。そこから解き放たれて主イエスのところに行くことができるのです。

なぜでしょうか。「門の外で主イエスが罪人として血を流して苦しんで、その血を私たちに注いでくださった。あの方のお陰で私は生きることができるのだ」と思った時に、あそこに自分の命の拠点があるのだと気づきます。その時、私たちは主イエスのところに行くのです。行かざるを得ないのです。

ある人がこういうことを言っています。「ここで門の外で苦難に遭われた主イエスは、これまでヘブライ人への手紙の著者が語り続けてきた大祭司イエス、『わたしたちには天に、神の御もとに大祭司イエスがおられる』と言った、あの大祭司イエスと同じイエスだ。大祭司イエスは今、こうしていてくださるに違いない。神にご自分の手にある釘跡を見せて、『これはあの人たちのために負ったわたしの苦しみ、わたしの傷です、だから、どうぞあの人たちをわたしと同じ神の子として受け入れてください』。ほかの何の条件もなく、主イエスはそのようにして我々を神の子として神の御前に立たせてくださるのではないか」。その人はそのように言うのです。

賛美歌はその神の子になった者たちの歌です。

そして、その賛美の中で私たちはこういうことを歌います。

14節にこうあります。「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです。」

私は思います、人間は皆、天にある故郷を求めてやまない存在なのではないか、と。皆、神に造られたのでありますから、神の御もとに帰っていくことにひそかな憧れがあるのではないでしょうか。あそこにこそ私の真のふるさとがあると本当は思っているのではないでしょうか。それを人間の罪が覆い隠しているだけなのです。

その罪の覆いを主イエスの血が取り除いてくださいます。そして、人間の真のふるさとはどこかということを指し示してくださいます。

 

私たちはそのふるさとを慕いながら、なおこの地上に生きます。その地上の旅の半ばにここに足をとめて仲間と一緒に礼拝をします。賛美を歌います。こんな幸いなことはないと思います。