「光は暗闇の中で輝いている」

                        ヨハネによる福音書115

                                                   水田 雅敏

 

今日からヨハネによる福音書をご一緒に学びます。

ヨハネによる福音書はマタイによる福音書やルカによる福音書と違って、いわゆるクリスマス物語がありません。そのようなクリスマス物語の代わりに、独特のプロローグ、序文を置いています。それが今日の聖書の箇所です。

ここには美しくかつ荘重、重厚な言葉が語られていますが、やや難解でもあります。今日はこれらの言葉を読み解きながら進めていきたいと思います。

1節から2節にこうあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」

ここで言われている「言」というのは私たちが一般に使う「言葉」というのと違います。「葉」という漢字がなく、「言」という一文字で「ことば」と読ませています。そこには、これは一般の「言葉」とは違うのだという思いと、それでも、これは「ことば」としか言いようのないものなのだという思いの両方が込められています。

ちなみに、これは原文では「ロゴス」というギリシア語です。「ロゴス」には「論理」とか「理性」などの意味がありますが、その言葉をヨハネによる福音書は特別な意味を込めて使っています。それはこの世界に来られるイエス・キリストを「イエス・キリスト」という字を用いないで言い表すことです。

この「ロゴス」を何と訳しているか、日本語の聖書をいろいろ調べてみました。

最初のプロテスタントの宣教師による日本語訳として有名なのは1837年に出版されたギュツラフ訳です。その訳ではこの「ロゴス」という言葉は「カシコイモノ」と訳されています。出だしはこうなっています。「ハジマリニ カシコイモノゴザル、コノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル、コノカシコイモノワゴクラク。ハジマリニコノカシコイモノ ゴクラクトトモニゴザル。」「カシコイモノ」という言葉には人格を持ったお方であるという意味合い、しかも、先ほどギリシア語のロゴスには理性という意味があると言いましたが、理性の根源であるお方というニュアンスが表われています。

その後、1872年にヘボンとブラウン共同訳のヨハネによる福音書が出ます。その訳ではロゴスを「言霊」と訳しています。「はじめに言霊あり、言霊は神とともにあり、言霊は神なり。この言霊ははじめに神とともにあり。」ここでは言葉を意味する「言」という字が用いられますが、それが一般の言葉ではないということで、聖霊の「霊」という字が付け加えられています。現代の私たちからすれば「言霊」などと聞くと別の宗教を思い浮かべてしまいますが、そこには、それが神と等しいものであり、神の霊を持ったものであるという意味が込められています。

その後、1879年のN・ブラウンという人の訳ではひらがなで「ことば」となっています。

そして、1917年の文語訳聖書では、この頃には「言」と書いて「ことば」と訳すのが主流になっていました。

現代語の聖書もいろいろ調べてみましたが、その中の一つに本田哲郎神父の訳があります。「はじめから『ことば』である方はいた。『ことば』である方は神のもとにいた。『ことば』である方は神であった。この方は初めから神のもとにいた。」

これらの訳よって示されてきた事柄、つまり、言・ロゴスとはいったい何か、あるいは、いったい誰かということをまとめると、次のようになります。それは四つあります。

第一に、そのお方は人格を持ったお方であるということです。「カシコイモノ」という表現とか「『ことば』である方」という表現はそのことを表しています。

第二に、そのお方は神と等しい方であるということです。そのことをヨハネによる福音書は「言は神と共にあった。言は神であった」という一見矛盾するような表現で言い表しています。

第三は、そのお方は最初から天地創造の前からおられたということです。イエス・キリストは二千年前にこの世界に来られたのだけれども、実はそのずっと前から神のところにおられたということです。

第四は、そのお方は神が天地を創造された時にそれに関わられたということです。ですから、この世界の全て造られたものにはイエス・キリストの意志が存在していることになります。

それではそういうふうに人格を持った神と等しいお方が、どうして「言」と言われるのでしょうか。

そこには積極的な意味があります。言葉とは単に事柄の伝達手段ではありません。言葉、それは意志を表しています。この場合で言うと神の意志です。

ヨハネによる福音書の冒頭は創世記の1章の天地創造の記事を下敷きにして記されたといわれます。

創世記の1章は次のように始まっています。「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」神がこの天地を創造された時、そこには既にこの世界と歴史に対する、人間に対する、神の意志がありました。その神の意志が言葉を通して現実となった時、天地創造という出来事が起こったのだと創世記は告げています。

神の言葉は言いっ放しの無責任な言葉ではありません。神の言葉は出来事を起こす力を持っているのです。神の言葉が語られた時は必ずその通りに実現するのです。

神は意志を持ってこの世界を創造されました。その神の意志を的確に伝えるために言・ロゴスが存在しました。そして、最後にはその神の言葉そのものであるお方、イエス・キリストが肉をとって私たちのもとに来られました。神の意志を、遠回しではなく、十分に伝えるために形をとって来られました。それがヨハネによる福音書が伝えるクリスマスのメッセージなのです。

そして、その「言の内に命があった」と4節に続きます。言が生きているのです。イエス・キリストは生きている神の言、命を持つ言なのです。命の源と言ってもよいでしょう。

神はいろいろなものを創造されましたが、一番の創造は命です。人間はいろいろなものを作れるようになりました。科学技術も進歩してきました。そういう意味では「人間もだんだん神に近づいてきたなあ」と驕ることがあるかもしれません。クローンなどということもありますが、しかしそれは命をコピーすることであって、命の創造ではありません。命だけはどこまでも神に帰すべきものなのです。

創世記には神が最初の人間をお造りになった時の様子が描かれています。2章の7節にこうあります。「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」ここには神こそが命の源であるという根源的な事柄が語られています。

その命の源がロゴス、すなわちイエス・キリストであったということを「言の内に命があった」という言葉によって語っているのです。

そして、それに続けて「命は人間を照らす光であった」と言います。

天地創造の時には神が「光あれ」と言われると光がありました。それまでは闇が天地を覆っていました。ここに神が天地を造られた目的、神がこの歴史をどういうふうに導いていこうとされるのかが示されています。それはこの世に光をもたらすということです。

それでは、光と闇はどういうふうに存在し、どのように関係しているのでしょうか。

量的に言えば、私たちの世界は闇のほうが大きい、闇が光を圧倒している、そのような世界に見えます。しかし、ヨハネによる福音書は5節にこう記しています。「光は暗闇の中で輝いている。」

ヨハネによる福音書の冒頭の部分は、ここまでは全て過去形で記されていました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。」ところが、ここで突然、現在形の文章が現れるのです。「光は暗闇の中で輝いている。」

この光、あの歴史の彼方で最初に天地を照らした光は、この世界を照らし続け、今日も私たちを照らしているのです。光と闇を並べてみると闇のほうが優勢で、闇が世界を支配しているように見えるかもしれません。しかし、実は私たちを支配しているのは光のほうなのです。

5節に「暗闇は光を理解しなかった」とあります。口語訳聖書では「やみはこれに勝たなかった」と記されています。光のほうが闇にまさっているのです。私たちがどんなに闇に包まれていようとも、光のほうが私たちの将来を指し示しているのです。そのことをはっきりと伝えるために、神はイエス・キリストをこの世界にお遣わしになったのです。

 

私たちは、この光に導かれて、この光に照らされて、この週の歩みを、希望をもって歩んでいきたいと思います。