「まことの光を反射する者」

                       ヨハネによる福音書1613

                                                   水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所には洗礼者ヨハネのことが記されています。洗礼者ヨハネはまことの光であるイエス・キリストを証しするために神から遣わされた預言者です。

このイエス・キリストと洗礼者ヨハネとの出会いは彼らが生まれる前にまで遡ります。

ルカによる福音書の1章を読みますと、天使ガブリエルがイエス・キリストの母となるマリアに現れて「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけます。そして、「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と告げました。

「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と戸惑っているマリアに対して、天使ガブリエルはこう続けます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう6か月になっている。」

このエリサベトの子供こそ、のちの洗礼者ヨハネでした。

マリアはこの天使のお告げを聞いたあと、それを確認するためにエリサベトのもとに出かけて行って、そして挨拶をしました。エリサベトがこの挨拶を聞いた時、エリサベトの赤ちゃん、のちの洗礼者ヨハネが胎内で踊りました。

とても愉快でほほえましい光景ですが、それは同時に象徴的なエピソードでもあります。というのは、やがてこの二人、イエス・キリストと洗礼者ヨハネは別の場所で再び出会います。その時もやはりイエス・キリストのほうから洗礼者ヨハネのもとへやって来られました。ヨハネから洗礼を受けるためです。その時、洗礼者ヨハネはイエス・キリストに向かってこう言いました。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」洗礼者ヨハネは、びっくりしたのです。

イエス・キリストを身ごもったマリアがエリサベトのもとへ挨拶に来た時、洗礼者ヨハネが胎内で踊ったということが象徴的だと言ったのはその出来事を思い起こすからです。洗礼者ヨハネはお腹の中にいた時に、その挨拶を受けて喜ぶと同時に、びっくりしたのではないでしょうか。「そちらから出向いてくださるとはとんでもない。本来ならわたしのほうから出向かなければならないのに。でも、この通りわたしはまだお腹の中で自由に動けません」ということで、エリサベトのお腹の中で体をググッと動かして、彼なりに最大の挨拶をしたのではないでしょうか

洗礼者ヨハネという人は偉大な人でしたが、彼の最も偉大なところの一つは自分の分をわきまえているということです。

洗礼者ヨハネは誰もが認める預言者でした。ヨハネによる福音書の1章の19節を見ると、ユダヤ人たちが祭司やレビ人たちを洗礼者ヨハネのもとに遣わして「あなたは、どなたですか」と質問させたとあります。皆が「もしかしたら、この人こそメシアかもしれない」と思ったのでしょう。それに対して洗礼者ヨハネは公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言いました。1章の15節にもこう記されています。「ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。『〈わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである〉とわたしが言ったのは、この方のことである。』」

誰でも人から褒められると嬉しいものです。「もしかしたら、この人こそメシアかもしれない」と皆が思っていれば、自分では「そうだ」とは言わないにしても悪い気はしません。ですから、「そのままにしておいてもいいのではないか」とふと思ったかもしれません。しかし、それも誘惑であることを洗礼者ヨハネはよく知っていました。

自分が誉められたい、高められたいというのは人間誰にでもある気持ちだと思いますが、それはどこまでもついてくる誘惑です。この誘惑から全く自由になるということはあり得ないのではないでしょうか。いや、自分は全く自由だと思うようになるとすれば、かえってそのほうが危ないのかもしれません。

使徒パウロもガラテヤの信徒への手紙の1章の10節でこう言っています。「こんなことを言って、今わたしは人に取り入ろうとしているのでしょうか。それとも、神に取り入ろうとしているのでしょうか。あるいは、何とかして人の気に入ろうとあくせくしているのでしょうか。もし、今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません。」パウロも優れた指導者でしたから皆から高められることも多かったでしょう。それだけにいっそうその誘惑を自覚していたのではないかと思います。

この福音書を記した福音書記者ヨハネも、洗礼者ヨハネのことを高く評価しながら、彼の位置づけをきちんと行っています。今日の聖書の6節にこうあります。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。」

福音書記者ヨハネはそのように、まず、洗礼者ヨハネが神から遣わされた人物であることをはっきりと記しながら、こう続けます。「彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。」

洗礼者ヨハネも輝く人物でした。福音書記者ヨハネは5章の35節では「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった」と書いています。しかし、洗礼者ヨハネが輝いていたのは、彼自身が光であったからではなく、まことの光を身に受けて、いわばその光を映し出すように輝いていたのです。まことの光を反射させて輝いていたと言ってもいいでしょう。その光の源とはイエス・キリストであり、洗礼者ヨハネはそのまことの光の証人、証言者であったのです。

このことは私たちキリスト者にも当てはまることです。

イエス・キリストは「わたしは世の光である」と言われました。それとは別のところでは「あなたがたは世の光である」と言われました。この二つはどういうふうに関係しているのでしょうか。どちらが本当なのでしょう。どちらも本当なのです。ただし、同じ光でも質的に少し違うのです。一方は光の源であり、自分で光る力を持ち、自分で光を放ちます。もう一方は自分では光りません。光ることができません。このまことの光に連なる時にそれを反射させて光るのです。あるいはそのまことの命の光のエネルギーをいただいて、それに連なっている限りにおいてそれを証しするように光ることができるのです。前者はイエス・キリストであり、後者は洗礼者ヨハネを筆頭とする人間、イエス・キリストに繋がる私たちキリスト者です。

洗礼者ヨハネは徹頭徹尾そのまことの光を証しし、指さし続けた人です。ある意味では、そのことだけのためにこの世に遣わされたと言ってもよいかもしれません。栄光をイエス・キリストに帰しながら、それを喜びとしつつ、静かに世を去っていったのです。

今日の聖書の10節にこうあります。「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。」この世界はイエス・キリストの意志で造られたにもかかわらず、そのイエス・キリストがやって来られた時に、そのイエス・キリストを認めなかったというのです。

11節に「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。人々もイエス・キリストを受け入れなかったというのです。この人々とは私たちも含めた全ての人間のことです。これは言い換えれば、自分の家に来たのに家の者から他人のような扱いを受けたということです。

まことの光がもたらされた時に、闇のような世界にはそういう拒否反応がありました。本当のもの、真実なものがやってくる時に、偽りの世界ではそれを嫌がって、あるいは怖がって、拒否するような反応が起きるのです。あるいは真理の光自体が、それを受け入れるか拒否するか、この世界を分断させるような力を持っているとも言えるでしょう。イエス・キリストは自分は剣をもたらすために来たとおっしゃいましたが、そのように鋭く人を峻別するような力を持った言として来られたということです。

そのことを踏まえながら、しかし、むしろ私たちはそのあとに続く言葉に注目したいと思います。12節にこうあります。「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」

これはただただイエス・キリストを受け入れるということです。そういう人にはいわば無条件で神の子となる資格が与えられるということです。

 

そして、そういうふうにイエス・キリストを受け入れた人たちは、13節ですが、「血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれた」と言います。これは私たちに与えられている大きな福音です。闇のような世界にあって光として来られたイエス・キリストを受け入れる時に、神の子となる資格が与えられ、その光を反射するように私たちも輝く者とされる。その喜びを噛みしめて、私たちは歩んでいきたいと思います。