「自分の十字架を背負う」

                      マタイによる福音書161328節 

                                                   水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所は主イエスの公の生涯において大きな分岐点になる所です。

21節にこうあります。「このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。」

「このときから」、主イエスはご自分の苦難と死についてお語りになり、十字架への道をはっきりと明らかにされたのです。

「このときから」とはいったいどのようなときだったのでしょうか。

それには一つのきっかけがありました。それは主イエスと弟子たちがパレスティナの北の端にあるフィリポ・カイサリア地方に行かれたときのことです。主イエスは弟子たちに向かって、「人々は、わたしのことを何と言っているか」とお尋ねになりました。

弟子たちは「洗礼者ヨハネだと言う人もいれば、預言者エリヤだと言う人もいますし、預言者エレミヤだと言う人もいます」と耳にしていた世間の評判を伝えました。

すると主イエスはそれに続けてこうお尋ねになりました。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だと言うのか。わたしを何者だと思って、ついて来ているのか。」

その問いに対してペトロが答えました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。

ペトロは人々が主イエスを預言者の一人として見ていた時に、「あなたはメシア、わたしの救い主です」と告白したのです。

預言者と救い主では全く意味が違います。預言者というのは「神の道はあそこにある」「あなたの歩むべき道はあそこにある」と教えてくれる「声」です。私たちの人生に道を教えてくれたり、渇いた魂を潤す泉のありかを教えてくれる存在です。それに対して主イエスは声ではなく道そのもの、命そのものであられる方です。主イエスはそのペトロの告白をとても喜んでくださいました。

「このときから」、つまり、ペトロが主イエスを救い主として告白をしたこのときから、主はご自分が受ける苦難について語り始められたのです。ご自分が何のためにこの世に来て、何をこれからするのかということを教え始められたのです。

それは十字架への道です。しかし、それは弟子たちにとって理解し難いこと、受け入れ難いことでした。それを聞いたペトロは主イエスを脇へお連れするといさめ始めました。おそらくペトロは救い主が十字架への道を歩むことなどあってはならない、あるはずがないと考えたのでしょう。彼は自分の思っていることに基づいて行動したのです。しかし、そのペトロの行動は主イエスにとっては人間の思いに過ぎませんでした。

私たちにもそういうところがあるのではないでしょうか。「イエスは私の救い主」と告白していても、自分ばかりが先走り、神の御心が分からない、主イエスがどういう方であるのか、何を望んでおられるかが分からない、そういうところがあるのではないでしょうか。

そのようなペトロに対して主イエスは「サタン、引き下がれ」と言われます。

この言葉は直訳すると「退け、サタン、わたしの後ろに」となります。ペトロは主イエスの前に立ちはだかる者となっていたのです。

主イエスはそのようにしてご自分の後ろに従ってくるように弟子たちを招きながら、これから十字架への道を進んで行かれます。それは私たちの命を買い戻すためです。

26節にこうあります。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」

私たちは自分ではその代価を支払うことはできません。その代価は神だけが支払うことのできるものです。また、支払ってくださったものです。

今日から受難週ですが、私たちは主イエスの十字架をどれほどのこととして受け止めているでしょうか。

よく教会では「イエスさまは私たちの罪を贖うために生まれてくださった。本当なら私が十字架にかからなければならなかったのにイエスさまが代わりにかかって死んでくださった。神さまはそれほど私たちを愛してくださっている」というようなことが言われます。それはその通りです。けれども、その恵みを単に「私が受けなければならなかった罰を代わってくれて、ありがとう」とか、「イエスさまが私の身代わりとなって死んでくれたから、私は救われた。お陰で安心して天国に行けます」などのひと言で簡単に片づけてしまっているとしたら、それは違います。

もし私たちが主イエスの十字架をそのようなものとしてしか受けとめていないのであれば、私たちはその恵みを極めてチープな恵み、安価な恵みに歪めてしまっていることになります。また、同時に主イエスの命そのものを軽んじてしまっていることにもなります。

確かに私たちの命は主イエスの命に変えられるほどに尊いものとされています。神は御子イエスの命をお与えになるほどに私たちを愛してくださっています。しかし、だからといって、御子の命は犠牲になってもかまわないというような軽いものではありません。御子の命もまた神が私たちの命を愛されるのと同じように尊いものなのです。

主イエスは十字架に引き渡される夜、ゲツセマネの園で血の滴るような汗をかきながら神に祈られました。苦しみもだえながら祈られました。そのことはその祈りを聞いていた神にとっても苦しみの時であったはずです。主イエスの十字架は神にとってもはらわたをえぐられるような心痛む時だったのです。その主イエスの命によって私たちは新しい命、永遠の命を与えられたのです。そのことを思うなら、ただ単に「ありがとう」だけでは済まないはずです。

例えば、もし私たちが川で溺れていて、それを誰かが助けてくれたとします。その人のお陰で自分は何とか岸にまで辿り着いて這い上がることができました。しかし、助けてくれた人は力尽きて溺れて死んでしまいました。しかも、自分の目の前でその人が川に流されていく姿を見続けていなければならなかったとしたら、「ああ、助かってよかった。助けてくれた人、ありがとう」では終われないはずです。そのことに苦しむと思います。葛藤もあるかもしれません。「なぜ私を助けようとしたのか」「あのまま私が死んでしまったらよかったのに」「私のせいであの人は死んでしまった」、そう思うかもしれません。

けれども、助けてくれた人はそのようなことは少しも思っていないし、望んでもいないでしょう。ただ、「助かってよかったね」と言って微笑んでくれるに違いありません。そして、そう思えばこそ、私たちはその人がくれた命を、その人が生きるはずだった命を生きようとするのではないでしょうか。

おそらく、その人が遠く流されていく姿がいつまでも目に焼きついて忘れることはできないでしょう。この先、そのことを思い起こしてはそれに向き合い続けなければならないでしょう。そのことを一生背負って生きていかなければならないでしょう。けれども、その背負うものがあるから、なおもその人の思いに応えて、助けられた命を、生かされた命を懸命に生きようとするのではないでしょうか。

主イエスが十字架という代価を支払って買い戻してくださった私たちの命とはそういう命なのです。

その主イエスが私たちに語りかけておられます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

「自分の十字架」、私たちが背負うべき十字架は、それぞれ持って生まれた困難な状況とか、人生に降りかかってきた苦労や辛さを受け取ることを意味するのではありません。私たちが背負う十字架、それは主イエスの命の重さです。そして、その重さは同時に神が私たちを愛する愛の重さでもあります。

その自分の十字架を背負っていく中で、私たちは神が与えてくださっている高価な恵みに気づき、その愛の大きさ、愛の深さに涙しながら、「あなたこそ私の救い主です。あなたにこそ私は従っていきます」と告白し続けていくのです。受難週はその志しを新たにする時なのです。