「言は肉となった」

              ホセア書1119節、ヨハネによる福音書11418節 

                                                    水田 雅敏

 

クリスマスの時によく読まれる御言葉の一つとしてルカによる福音書の2章の10節から11節があります。皆さんが何度もお聞きになった御言葉です。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」

これと同じ出来事をヨハネによる福音書は次のように表現しています。今日の聖書の14節にこうあります。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

この言葉はとてつもなく大きな事柄を語っています。めまいがするほど大きな事件について述べています。

この「言」とは何かと言えば、1章の1節から3節にこうあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言葉によらずに成ったものは何一つなかった。」

つまり、この「言」とは天地創造以来、天にあって神と共にあったお方です。端的に「言は神であった」とも書いてあります。その言なる神が私たちと同じ肉体をとってこの世界に来られたのです。

これは私たちの常識を否定し覆すことです。私たちの常識からすれば、神と人間は違います。

けれども、人間のほうはいつも「神のようになりたい」という思いを持っていました。アダムとエバが蛇にそそのかされて、神が食べてはならないと言われた木の実を食べてしまったのは「神のようになりたい」と思ったからです。天にまで届くバベルの塔を建てようとしたのも「神のようになりたい」と思ったからです。

しかし、神はそのような人間の思いを打ち砕かれました。また、そのあとも預言者たちを通して神と人間は違うということを示し続けてこられました。

神と人間を混同するのは神を冒涜することにほかなりません。神と人間は決して混じり合わない、決して一つにはならないのです。

神のほうでもきちんとした一線を引いてこられました。今から二千年ほど前のクリスマスの日までは。しかし、その日、天地がひっくり返るような出来事、神が人間の体をもって私たちの世界に直接入ってくるというとんでもない出来事が起きたのです。

神は永遠なるお方です。世の初めから終わりまでおられる方です。当時のギリシア世界では、そういうお方は決して滅ぶべき肉体をとらないと考えられていました。しかし、ヨハネによる福音書はそれを意識しながら、あえてそれに挑戦するかのように記すのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

それは永遠なるお方が時間の中に入ってこられたということです。どんな場所にも限定されないお方がある空間に入ってこられたということです。神が人となるとはそういうことです。

なぜ、そのようなことを神はなさったのでしょうか。何か大きな決意が起こったのでしょうか。

16節にこうあります。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」

神はそのように恵みに満ちあふれたお方であるからそれが溢れ出てきた、恵みが神御自身の中に留まることをせず、私たちの世界にまで到達した、そういう出来事が起こったのです。

それは神の愛と関係のあることでした。

その神の愛について最もよく記していると思われる旧約聖書の御言葉はホセア書の11章の1節から9節です。

ホセア書の11章はこういう言葉で始まります。1節から3節の前半にこうあります。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。わたしが彼らを呼び出したのに 彼らはわたしから去って行き バアルに犠牲をささげ 偶像に香をたいた。エフライムの腕を支えて 歩くことを教えたのは、わたしだ。」

「エフライム」とありますが、これはイスラエルのことだと理解していただいてもよいと思います。神はイスラエルを、その歴史の初めから、それがまだヨチヨチ歩きの頃から、ずっと手を取って支え、成長を見守ってきた。

これはイスラエルに限らず、私たちにも同じように当てはまる言葉です。

3節の後半から4節にこうあります。「しかし、わたしが彼らをいやしたことを 彼らは知らなかった。わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き 彼らの顎から軛を取り去り 身をかがめて食べさせた。」

神は遥かに人間を超えたお方です。神と人間は大きさが全く違います。ですから、その神が人間に何かを食べさせようとすると、人間に合わせて身を屈めなければならない、神は御自分のほうから体のサイズを人間に合わせてくださったというのです。

このあたりから既にクリスマスの予感がするのではないでしょうか。

5節から7節にこうあります。「彼らはエジプトの地に帰ることもできず アッシリアが彼らの王となる。彼らが立ち帰ることを拒んだからだ。剣は町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち たくらみのゆえに滅ぼす。わが民はかたくなにわたしに背いている。たとえ彼らが天に向かって叫んでも 助け起こされることは決してない。」

神が一心に愛を注いでいるのに、人間のほうはその愛を知らないのです。神の御心を知ることができず、自ら滅びようとしているのです。そして、ここで神はそのように自滅しかかっている人間に対して「もう好きなようにするがいい。滅びるなら、お前たち、自分たちの責任だ」と言いながら突き放してしまおうとしておられます。

ところが、どうでしょう。そこで突然、神は何かを思い返したように引き返してこられるのです。8節の前半にこうあります。「ああ、エフライムよ お前を見捨てることができようか。イスラエルよ お前を引き渡すことができようか。アドマのようにお前を見捨て ツェボイムのようにすることができようか。」

自分の愛する者が滅んでいくのを黙って見過ごすことはできない、それを無視して立ち去ることができないというのです。

そして、次のように言われます。8節の後半にこうあります。「わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。」

居ても立ってもいられないのです。

ギリシア世界の神々は決してこのようにオロオロしません。人間に同情もしません。何があろうと高みの見物を決め込んでいます。しかし、聖書の神は違うのです。「わたしは激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる。」

この言葉を境に、神の言葉は何かスウッと冷めていくような感じになります。9節の前半にこうあります。「わたしは、もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない。」

8節と9節の間には明らかに大きなギャップがあります。この間にいったい何があったのでしょうか。

神は人間が自ら滅んでいくのをそのままにすることはできず、体を張って阻止するために、何かとてつもない決意をなさったのではないかと思います。それがクリスマスの日に明らかになるのです。

神はこう続けます。9節の後半にこうあります。「わたしは神であり、人間ではない。お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない。」

神は「わたしは神であり、人間ではない」と宣言されました。

しかし、その言葉の意味することは私たちの考えることと少し違っています。「わたしは神であり、人間ではない」と言われれば、多くの人は、神は人間を超越していて、何があっても動じない、人間が滅んでいこうとも動じない、びくともしないと考えるのではないでしょうか。しかし、ここではそうではありません。神は人間のことが心配で心配でたまらなのです。

確かに、この神も人間を超越しているところがあります。それは愛の面です。人間であれば、悪いことをされたら、あるいは裏切られたら、相手を憎んだり、怒りをもって報復したりするでしょう。しかし、神はそれをしないのです。それが「わたしは神であり、人間ではない」ということの意味なのです。

そして、不思議なことが起こりました。愛が桁違いに大きいがゆえに、「わたしは神であり、人間ではない」と言われた神が、その愛のゆえに、こともあろうに、逆に人間になってしまわれたのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とはそういう不思議な出来事を語っているのです。

 

私たちはこの世界に生きていると「本当に神はおられるのだろうか」と思わざるを得ないような出来事に遭遇します。しかし、クリスマスの夜に誰も知らないところで神の大きな歴史が始まったように、今も私たちの気がつかないところで神が働いておられることを信じたいと思います。そのことに励まされて、この週も勇気をもって、ここから出かけて行きたいと思います。