「見よ、神の小羊だ」

                      ヨハネによる福音書12934

                                                   水田 雅敏 

 

前回、私たちが学んだ箇所には「あなたは、どなたですか」という質問に対する洗礼者ヨハネの答えが記されていました。

ヨハネは「わたしは救い主ではないし、エリヤでもないし、あの預言者でもない」と答えました。

「それではいったい誰なのです」と、質問した人々は改めて問いかけます。

それに対してヨハネは「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と答え、続けてこう言いました。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」

ヨハネは「わたしはそのお方が来られる道備えをしている者に過ぎない。そのお方とわたしではいわば格が違う」と言いながら、来たるべきメシア・救い主がいったいどれほどの方であるかを匂わせたのです。

そこから今日の聖書の記事が始まります。

「その翌日、ヨハネは、自分のほうへイエスが来られるのを見て言った。『見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。〈わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである〉とわたしが言ったのは、この方のことである。』」

ヨハネは主イエスを指さして「世の罪を取り除く神の小羊」と呼びました。

この言葉は旧約聖書の出エジプト記の記事が前提になっています。神がエジプトの地で奴隷になっているイスラエルの民をエジプトから救い出す話です。

イスラエルの民の指導者であるモーセはエジプトの王ファラオに向かって彼らを去らせるように訴えるのですが、ファラオはそれを聞こうとはしません。そのようなモーセとファラオの一連のやりとりが続いたあと、遂に神はエジプトの初子を全て殺すということをモーセに告げられます。ただし、家の鴨居と二本の柱に小羊の血を塗っている家には災いを下さず、災いを過ぎ越すと言われました。

その小羊の犠牲のゆえに災いを過ぎ越すということが背景にあって、洗礼者ヨハネは「主イエスこそは神御自身が備えられたまことの小羊だ」と言ったのです。

もう一つ、「義性の小羊」ということで私たちが忘れてならないのはイザヤ書です。イザヤ書の中には「主の僕の歌」と呼ばれる歌が何度も出てきます。

特に有名なのは53章です。イザヤ書の53章の6節から8節にこうあります。「わたしたちは羊の群れ 道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた。苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の罪の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを。」

これは説明する必要がないほど、ずばり、主イエスのことを預言した言葉として聞くことができるのではないでしょうか。ヨハネが主イエスを指さして、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言った時、人の罪のために屠り場に黙って引かれていったこの苦難の僕のことを思い起こしていたに違いありません。

もう一つ、別の「主の僕の歌」を見てみましょう。それは42章です。イザヤ書の42章の1節にこうあります。「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ 彼は国々の裁きを導き出す。」

「見よ、わたしの僕」とありますが、これはヨハネの言葉に通じるものがあります。「見よ、わたしの僕」「見よ、神の小羊」。

また、「彼の上にわたしの霊は置かれ」とありますが、ヨハネによれば主イエスの上に留まったのは鳩のように天から降ってきた「〝霊〟」でした。

2節にこうあります。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷(ちまた)に響かせない。」

その方は「国々の裁きを導き出す」方ではあるけれども、声を荒立てて人を威圧したりする方ではないというのです。

3節にこうあります。「傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。」

その方はこの世の権力者と違って強い者の味方をして弱い者を踏み潰すような方ではない、むしろそこで消えかかっている者を一生懸命生かそうとする、そういう裁きを行われる方だというのです。

4節にこうあります。「暗くなることも、傷つき果てることもない この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」

「島々」とは「諸国」という意味です。ただ単にイスラエルの伝統の中にある者だけでなく、世界中の人々がその方の教えを待ち望んでいるというのです。

これがここに記されている「主の僕の歌」の内容です。やはりこの歌も主イエスを彷彿とさせるものではないでしょうか。ヨハネはそのように旧約聖書で預言されていた救い主が今、ここに来られたのだと証ししたのです。

今日の聖書の箇所を読んでいて印象的なことの一つは、「わたしはこの方を知らなかった」と洗礼者ヨハネが二度も語っていることです。31節と33節です。「『わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。』そしてヨハネは証しした。『わたしは、〝霊〟が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。』」「『わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、〈〝霊〟が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である〉とわたしに言われた。』」

ヨハネは、自分は具体的にどの方が救い主であるかは知らなかったけれども、その方がどのようにして来るかは聞かされていた、つまり前もってヒントが与えられていたというのです。それはその方の上に聖霊が降るということです。それがこの方、主イエスの上に実現するのを見たから、わたしはそれを証しするのだというのです。

ヨハネは主イエスの上に聖霊が降るのを見たと言いますが、果たしてそれは誰の目にも明らかなように降ったのでしょうか。むしろ分かる人にだけ分かるように示されたのではないかと思います。聖霊というのはそういうものではないでしょうか。分かる人にだけ分かる、あるいは見ようとする人にだけ分かるのです。

この福音書の14章の17節には聖霊が降ることを約束された主イエスの遺言のような言葉が記されていますが、その言葉にも分かる人にだけ分かるという含みがあります。「この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」

ヨハネは、主イエスが来られる道備えをし、そして来られた時には「この人を見よ」と証ししました。「わたしはついこの前までそれが誰かを知らなかった。しかし、今は知っている。だから証しするのだ」と語りました。

そして、次回に私たちが学ぶ箇所では、ヨハネは自分の弟子たちに向かって「見よ、神の小羊だ」と直接告げます。そして、そこからヨハネの弟子たちが主イエスと結びついていき、それを伝えたヨハネ自身はスーッと後退していきます。あとにヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」と言いますが、それがここで既に始まっているのです。

伝道とはそういうものなのでしょう。誰かに主イエスを指し示し、その人が主につながったら、私は退くのです。信仰とは人が崇められることでなく神が崇められることだからです。

 

このあと私たちは讃美歌21280番をご一緒に歌います。その4節はこういう歌詞です。「この人を見よ、この人にぞ、こよなき愛はあらわれたる。この人を見よ、この人こそ、人となりたる 活ける神なれ。」私たちもそのように主イエスを指さしながら、与えられている使命を果たしていきたいと思います。