「来なさい。そうすれば分かる」

                      ヨハネによる福音書13542

                                                   水田 雅敏 

 

今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の1章の35節から42節です。

ここには私たちがキリスト者になっていく過程がよく示されています。それは三つの視点から見ることができます。第一は、私たちはどのようにして主イエスに従うようになるのかということです。第二は、私たちはどのようにして伝道をするのかということです。そして第三は、主イエスはどのようにして人を召されるのかということです。今日はそれらのことについてご一緒に学んでいきたいと思います。

まず、第一の、私たちはどのようにして主イエスに従うようになるのかということについて考えてみましょう。

前回、私たちは洗礼者ヨハネと主イエスが初めて出会った箇所を読みました。そこでヨハネは主イエスを指さして「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。今日の箇所ではヨハネは直接二人の弟子に対して「見よ、神の小羊だ」と言っています。この行為と言葉によって二人の人間が主イエスのほうへ向かうのです。

その二人がそっと主イエスのあとをついて行くと、主イエスが振り返り、「何を求めているのか」と声をかけられます。

おそらく彼らは「もう少し黙ってついて行ってみよう。様子を見てみよう」と思っていたのではないでしょうか。それが主イエスのほうから声をかけられて、ちょっとためらったかもしれません。彼らは慌てて「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と尋ねました。自分たちの先生であるヨハネが「見よ、あの方こそ神の小羊だ」と言ったので、それが本当かどうか見極めたいと思ったのでしょう。

教会に来始めてまだ洗礼を受けておられない人のことを教会では「求道者」と呼びます。「求道者」は道を求める者と書きます。この二人の行動や言葉は求道者の気持ちをよく表していると思います。最初から「キリスト教を信じたいのですが」と言って教会に来られる方はほとんどありません。もしかしたらここに何か大事な教えがあるのではないか、自分が探している答えがあるのではないか、それを確かめたいという思いで教会に来られることが多いと思います。

二人は主イエスに向かって「ラビ」と呼びかけました。この「ラビ」という言葉は尊敬を表す表現として広く使われていた言葉のようです。日本語の「先生」に近いかもしれません。この段階では二人にとって主イエスは「ラビ」、先生なのです。その人から何かを学びたい、何か人生の大切な指針となる事柄を教えていただきたいと心が開いている、この「ラビ」という呼びかけはそのことを示しています。

このあと二人は一晩じっくり主イエスから話を聞きました。質問もしたでしょう。

翌朝になると、彼らは「わたしたちはメシアに出会った」と告白するようになったのです。「メシア」というのはギリシア語では「キリスト」となります。「キリスト」というのは「油注がれた者」という意味で「救い主」という含みを持っています。彼らは「わたしたちはキリスト、救い主に出会った」と言ったのです。この「ラビ」と「メシア」という二つの言葉の間には大きな違いがあります。彼らの中で何か決定的な変化が起きたのです。

二人のうちの一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレでした。アンデレは翌朝、自分の兄弟シモン・ペトロに「わたしたちはメシアに出会った」と伝えます。その言葉を聞いて、今度はシモン・ペトロが主イエスのもとに赴きます。

主イエスはペトロに向かって、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファと呼ぶことにする」と言われました。「ケファ」というのは「岩」という意味です。それがギリシア語で「岩」を意味する「ペトロ」という名前の由来です。

ペトロの主イエスとの出会い、彼の召命については四つの福音書それぞれによって描かれ方が違います。

マタイによる福音書とマルコによる福音書は似ています。漁師であるペトロとアンデレが海岸で網を打っていると、そこに主イエスが現れて、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われます。彼らはその場ですぐに網を捨てて従いました。

ルカによる福音書によるとこうなっています。ペトロとヤコブとヨハネが夜通し湖で漁をしたけれども何も捕れません。がっかりして海岸で網を洗っていたところ、主イエスが現れて、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われます。彼らはその言葉を半信半疑で聞くのですが、とにかく言われた通りにすると、とんでもない大漁になります。そこで主イエスはペトロに向かって、「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と言われました。

ヨハネによる福音書を読むと、漁のことは出てきません。ペトロは弟のアンデレに連れられて主イエスのところへ行った、ただそれだけです。

これらの記事はそれぞれ違った伝承に基づいて書かれているので、実際はどんなふうであったかはよく分かりません。しかし、それぞれが全部あったこととして考えることもできるでしょう。そうだとすれば、ヨハネによる福音書に書かれているこの出会いが一番最初だったかもしれません。ここでの出会いが基礎となって、あの海岸での出来事があったのではないかと考えると、なるほどと頷けるものがあります。のちに教会の指導者になっていくペトロの主イエスとの出会いがこのように単純なものであったとすれば、何か身近な感じがします。

第二は、私たちはどのようにして伝道をするのかということです。

この箇所には伝道のモデルが二つ描かれています。それは洗礼者ヨハネとアンデレの姿です。この二人がしたことは次の二つの言葉で言うことができます。

一つは主イエスを証言したということです。主イエスを証しすることそのものが伝道になるのです。

洗礼者ヨハネは主イエスを指さして、弟子たちに向かって、「見よ、神の小羊だ」と言いました。アンデレは兄のペトロに「わたしたちはメシアに出会った」と言いました。これはそれぞれに信仰の告白であり、証しの言葉です。

これらの言葉にはそれぞれ彼らの実存がかかっています。自分の存在をかけてこの言葉を語っているのです。そういう言葉が人を捕らえるのです。信仰の言葉は科学のような客観的な真理ではありません。その言葉が人に伝わるかどうかは、その人がどれほどその言葉に自分をかけているかにかかっているのです。

もう一つは、この二人は自分の身近な人を主イエスに引き合わせたということです。

これは伝道の基本中の基本です。つまり人から人へ、しかも親しい人へということです。洗礼者ヨハネは自分の弟子たちに主イエスを指さしました。アンデレは兄のペトロに証しをしました。

どうしてそれが大事であるかというと、そこには信頼関係があるからです。「あの人が行っている教会であれば行ってみよう」とか、「あの人が信じている信仰であれば間違いないだろう」とか、「あの人が信じているものはいったい何なのだろう」ということがあるのです。

この時、二人の弟子が主イエスを追いかけていったのは、何よりもヨハネに対する信頼があったからです。「ヨハネ先生の言うことなら大丈夫だろう」と信頼したのです。ペトロも信頼していたアンデレが「わたしはメシアに出会った」と証ししたからこそ自分も行ってみようと思ったのでしょう。

このアンデレは、ヨハネによる福音書では三回登場するのですが、彼がしたことはいつも誰かを主イエスに引き合わせることでした。今日の箇所では自分の兄弟ペトロを主イエスに引き合わせました。このあとの6章では五つのパンと二匹の魚を持っている少年を主イエスに引き合わせています。そして、12章では何人かのギリシア人を主イエスに引き合わせています。このようにアンデレという人は紹介の達人でした。彼は福音書の中で主役級の登場人物ではありませんが、とても大切な働きをしているのです。彼がいなければあの使徒ペトロもいなかったかもしれません。

私たちは自分ができる事柄などたかが知れていると思うかもしれません。しかし、私たちのできることは小さくても、それを主イエスご自身が引き受け、引き上げて、そこから大きな働きへと繋いでくださいます。そのことを信じて、誰かを主イエスに引き合わせる小さな働きを私たちなりにしていきたいと思います。

さて、第三は、主イエスはどのようにして私たちを召されるのかということです。

二人の弟子が自分についてくるのを見て、主イエスは「何を求めているのか」とお尋ねになりました。彼らが「ラビ、どこに泊まっておられるのですか」と問い返すと、主イエスは「来なさい。そうすれば分かる」とお答えになりました。

主イエスは自分に向かってくる人に対して、逆に自分のほうから、「何を求めているのか」と核心に迫る問いを発せられます。こちらが「何かをつかみたい。学びたい」と思っている時に、その人を主ご自身が捕らえてくださるのです。そして、「来なさい。そうすれば分かる」と言われます。「わたしのもとに来なさい。ここにこそあなたの求めているものがある」「ここにこそ命の泉がある」「ここにこそ人生の真理がある」と人々を招いてくださるのです。

 

洗礼者ヨハネやアンデレのように、私たちも親しい人を教会に誘い、主イエスに引き合わせる務めを果たしていきたいと思います。主イエスご自身が語られたように、「来なさい。そうすれば分かる」と言えばいいのです。あとは主イエスご自身がその人を導いてくださるのであります。