「主の道をまっすぐにせよ」

                      ヨハネによる福音書11928

                                                  水田 雅敏

 

私たちはこれまでヨハネによる福音書の1章の1節から18節を学んできました。その部分はこの福音書全体の序文に当たる所です。

今日の聖書の箇所から本文が始まります。ここは洗礼者ヨハネについて語られている所です。既に序文の所でも洗礼者ヨハネについて語られていましたが、今日はまた違った角度から洗礼者ヨハネについてご一緒に学びたいと思います。

それはこのように始まります。「さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、『あなたは、どなたですか』と質問させたとき、彼は公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した。」

この言葉は暗に「もしかすると、ヨハネがメシアかもしれない」と人々から思われていたことを示しています。「メシア」というのは救い主のことであり、ギリシア語で言うと「キリスト」となります。

この質問に対してヨハネは「いや、わたしはメシアではない」と答えました。

すると人々は「では何ですか。あなたはエリヤですか」と問い返します。「エリヤ」というのは旧約聖書に出て来る預言者であり、メシアが登場する前にその先駆けとしてエリヤが再び現れると考えられていました。

この質問に対してヨハネは「いや、わたしは、エリヤでもない」と答えました。

さらに、「あなたは、あの預言者なのですか」と問われ、これに対してもヨハネは「いや、そうではない」と答えました。「あの預言者」とはおそらくモーセのことでしょう。救いの時には彼が再来するという期待もありました。

そこで人々は困って、「それでは、あなたは、いったい、誰なのですか。わたしたちは、わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは、自分を何だと言うのですか」と詰め寄ります。

それに対してヨハネはこう答えました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」

これは旧約聖書のイザヤ書の言葉をヨハネが自分に当てはめて引用したものです。

もともとの言葉はこうでした。イザヤ書の40章の3節から5節にこうあります。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを 肉なる者は共に見る。」

道が荒れ果ててデコボコなのです。神の救いを仰ぎ見るためにはそのデコボコの道を整えなければならない、険しい道を平らにしなければならない。狭くて通るのが困難な道は広くしなければならない。山と丘を低くして、谷を埋め立てて高くしなければならない。「わたしはその道備えのために遣わされたのだ。わたしはメシアではなく、エリヤでもなく、あの預言者でもなく、その一つ手前の仕事、救い主が来られる準備をする者なのだ。」ヨハネはそのように答えたのです。

道を整えることと神の救いを仰ぎ見ることとは関係があるのです。道が整えられなければ神の救いを仰ぎ見ることはできないのです。

「山」と「谷」、これは当時の金持ちと貧しい人の差、あるいは権力者と奴隷の差、そういう人々の差があまりにも大きすぎるということでしょう。そのために神の慈しみが人々に伝わらないのです。だから、そのようなデコボコの道を平らにし真っすぐにしなければならない。極端な富の集中や貧しさがなくなり、正義と公正に満ちた社会が実現されなければならない。

そうであるならば、これは今日の私たちの社会にも当てはまることではないでしょうか。

教会でこういうことを語ると、すぐに、「彼は社会派だ」とレッテルを貼られることがあるのですが、私はこうしたことを語るのはとても大事なことだと思います。

キリスト教の世界には「福音派」、「社会派」と呼ばれる不幸な分裂と対立があります。大ざっぱに言うと、魂の救い、つまりイエス・キリストを信じて洗礼を受けて救いを得よということを強調する人たちは、「福音派」と呼ばれます。他方、そういうことよりも神の国の実現、つまり神の望まれる正義と公平に満ちた社会を実現することを強調する人たちは「社会派」と呼ばれます。

しかし、この二つは本来、切り離されてはならないものです。このような色分けは意味がありませんし、誤解を招きやすいものです。主イエスの中でも、この二つの関心、つまり魂の救いと神の国の実現ということは深く結びついていました。

ドイツの神学者でボンヘッファーという人がいます。彼はこの二つの事柄を「究極のもの」と「究極以前のもの」という言葉で呼びました。「究極のもの」とは神と私たちに関することです。「究極以前のもの」とはこの世界に関することです。人権の問題、差別や抑圧をなくすことなどです。

ボンヘッファーはこう言います。「神の究極の言葉の宣教と共に、究極以前のもののためにも配慮することが、どうしても必要になってくる。なぜなら、この世界にはキリストの恵みの到来を妨げる人間の不自由、貧困、無知の深淵があるからである。だから、我々は福音の宣教のために、福音の言葉が届くようにするために、それらの障害物を取り除いていかなければならない。」

ボンヘッファーはその働きのことを「道備え」と呼びました。「道を備えるという課題は、キリスト・イエスが来られることを知っている者全てに与えられている課題である。飢えた者にはパンを、家のない者には住まいを、権利を奪われた者には権利を、孤独な者には交わりを、奴隷たちには自由を、提供することが必要である。」

どういうことかと言いますと、その人を取り囲む状況が、とても「神は愛である」ということが分からない状況であるならば、その障害を取り除いて、「神は愛である」ということが伝わるような「道備え」をしなければならないということです。あるいは、「神などいない」としか思えない状況にある人に向かって、その人の生きている状況に無関心でありながら、いくら大声で「神はあなたと共にいてくださる」と語ってみても、それは決して伝わらない。その言葉が通じるための「道備え」をしなければならないということです。

教会が「究極のもの」だけを語り、社会正義の実現や公平な社会を築くこと、あるいは人権を守るという事柄に関心を持たなければ、それはどこかおかしいのです。あるいはまた、それとは逆に、教会が「究極以前のもの」に熱中するあまり、この世の社会活動と変わらなくなってしまう、あるいは政治活動と同じになってしてしまう、それによって、何が「究極のもの」であるかを見失うということもまた間違いなのです。教会はこの二つのこと、「究極のもの」と「究極以前のもの」、神のこととこの世界のこと、魂の救いのことと神の国の実現のこと、これらの両方をしっかりと見据え、その関係をわきまえていなければならないのです。

ヨハネはボンヘッファーの言葉で言えば、「究極のもの」のために「究極以前」の働きをしたと言えるでしょう。

彼は自分の働きの意味と限界とをよくわきまえていました。ですから、主イエスを指さして「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」と謙虚に語ったのです。

ヨハネは主イエスに先立って「道備え」の働きをしましたが、私たちにとっては、主イエスは既に来られた方であり、見えない形で共におられる方です。ヨハネ自身も「あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる」と言いました。

主イエスは今、私たちの知らない形で存在し、分からない形で私たちを支えてくださっています。私たちが「主のために道備えをしなければならない」と思っているところで、実はその道備えの道備えを主ご自身がなしてくださっているのです。この主の弟子として主の歩まれた道の上を歩むことを私たちは許されているのです

それと同時に、主イエスは再び見える形で帰ってこられて御国を来たらせる、神の国を実現すると約束されました。私たちはその日を待ち望み、その日のために、主の再臨を仰ぎ見ながら、その道備えをするのです。

 

これらのことを覚えて、この週、私たちは歩んでいきたいと思います。