イエス・キリストに倣う者

                          テサロニケの信徒への手紙一 1章1~10節

                                                水田雅敏

 1節の「恵み」はイエス・キリストによって示された神の救いの根拠であり、「平和」はその目標を表しています。信仰者の中には「私たちにとって地上の平和は問題ではない。どんなに平和運動をしても戦争などなくならない。本当の平和はイエス・キリストの平和で、それは神の国において実現する」と言って、地上のことに消極的な人がいます。しかしそれは間違いです。3節に「信仰」「愛」「希望」という言葉があります。これはテサロニケの教会の人々の教会生活を表現した言葉です。パウロは、神の国を求める「信仰」から、地上に「愛」と希望の証しを立てることを求めます。天の国を待ち望む人はそれだけ地上のことに熱心になります。イエス・キリストにおいて地と天はつながっているのです。6節と7節に「倣う」「模範」という言葉が出てきます。信仰とは一つの事実です。「愛」と言う時、そこにはイエス・キリストの模範があります。十字架に至るまで従われた、その身を捨てての愛、しかも相手の罪を赦し、それを自分自身の身に負う愛、それはどこにも見ることのできないものです。この手本に私たちも倣うのです。

 こうして私たちがイエス・キリストに倣うとき、私たちもまたすべての信仰者の模範になることができます。この場合、「模範」は完全なものである必要はありません。私たちの中に「イエス・キリストに倣う」その一点さえあればよいのです。信仰が現実の生活の中に生きることが大切です。テサロニケの教会の人々が他の人々の模範になったのは、六節にあるように、「ひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」たからです。彼らの周りにはイエス・キリストに従うゆえに起こる迫害の嵐がありました。その言い知れない苦しみの中で、彼らは御言葉を受け入れたのです。

 私たちは、教会生活、日常生活の中で、くじけてしまうことがあります。くじけてしまう中でこそ、御言葉を学ぶのです。その苦しみはイエス・キリストが十字架において受けられた苦しみだと知って、自分の苦しみの中で主の苦しみを学ぶのです。御言葉の中にそのような意味を見出すとき、私たちは御言葉を喜びをもって受け入れることができます。多くの苦難の中で喜びをもって御言葉を受け入れることは、私たちの力によってではありません。「聖霊による喜びをもって」とあるように、上から喜びが起こされるのです。その力に信頼するのです。

 すると、そのような模範はさらに大きな輪となって広がっていきます。八節から十節には、テサロニケの教会の人々が聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れたことの波紋が書かれています。彼らは、信仰と愛と希望の中に生き、艱難の中で喜びをもって御言葉を受け入れ、偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えて、イエス・キリストの再臨を待ち望んでいました。

  聖霊の力は歴史を貫いて、今も私たちに働いています。このことを確信しつつ、私たちも信仰の完成を目指して歩んでいきましょう。