聖霊が降る

                                 使徒言行録2章1~13節

                                                                                 水田雅敏

 ペンテコステ、おめでとうございます。ペンテコステの日、弟子たちの上に聖霊が降るという出来事が起こりました。使徒言行録の2章にはそのときの様子が詳しく書かれています。「すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」(4節)

 ここで重要なのは「ほかの国々の言葉で話しだした」という不思議な出来事よりも、そうした様々な言葉を通して福音が語られ始めたということです。ペンテコステとは弟子たちがこの世に向かって公にイエス・キリストを宣べ伝える力を与えられ、その働きを直ちに開始した日、伝道する教会の誕生を意味する出来事だったのです。

 弟子たちは万全の準備や態勢、高度の神学的な理論や潤沢な活動資金が整ってから伝道に乗り出したのではありません。人間的に考えれば、外部に働きかけるのはもっと良い機会に、もっと準備してから、もっと状況が好転してからというほうが自然なことだったでしょう。しかし聖霊は弟子たちの思惑や都合に関わらず、風のように、炎のように、自由自在に、彼らの上に降り注いだのです。

 このように教会の伝道の業は聖霊の業であり、また神御自身の業です。それは人間の計画や意思によるものではありません。弟子たちは語りたいから語ったわけではありません。聖霊が語らせたので語らざるを得なかったのです。それは私たちにとってはまさに強いられた恵みです。

 しかしそれは伝道においては人間が単なる神の道具として利用されるにすぎないということではありません。むしろ伝道の業を通して最も大きな恵みを与えられるのは伝道に参加する私たち自身です。私たちは伝道に参加することを通して多くのことを教えられ、多くの恵みを与えられ、教会として、神の民として育てられていくのです。つまり神御自身が主導権を取られるこの伝道の働きに参加することを通して、そもそも伝道とはどういうことなのかということを私たち自身の問題として考え抜く機会を与えられるのです。

 こうした問いはさらに徹底していけば、キリスト教とは何か、キリスト者であるとはどういうことなのか、という問いへと展開していきます。言葉を換えて言えば、伝道に参加するということはキリスト者としての私たち自身の姿を確認し形成していくことに結びついているのです。

 私たちは使徒言行録を読むと、ついペトロやパウロの個人的な働きに心を奪われがちですが、彼らを導き成長させてくださった聖霊の働きにこそ心を向けなければなりません。ある人はこの使徒言行録のことを「聖霊言行録」と言っています。それは使徒ではなく聖霊こそ伝道の主役だということです。

 

  二千年前に弟子たちや初代教会を導いた聖霊が同じように現代の私たちをも導いてくださいます。このことを信じて、私たちもまた大胆に私たちの時代における神の伝道の業に参加し、神の教会を造り上げていきたいと思います。