神は我々と共に

                                   マタイによる福音書1章18~25節

                                        水田雅敏

神は何ものにも制約されず、まったき自由をもって、それぞれの時代にそれぞれの担い手を起こしてこられました。そして今やヨセフとマリアという二人の人物に重大な課題を託されます。それは救い主イエス・キリストの誕生という出来事です。

この箇所は、同じイエス・キリストの誕生を伝えているルカによる福音書の記事と比べた場合、マリアではなくヨセフの方に焦点を合わせて書かれています。

ヨセフはマリアが自分たちのではない子を宿しているということを知って、さぞかし驚いたことでしょう。自分の身にふりかかった思いがけない事態に狼狽して、途方に暮れたのではないでしょうか。この現実をどう受けとめ、どう対処すればよいかと思い悩んだに違いありません。

 このヨセフの姿は私たちの姿でもあるのではないでしょうか。私たちが立てた計画はしばしば予定の変更を余儀なくされて、もろくも崩れ去ってしまいます。思いがけない事故や病気、会社でのリストラや人間関係の破綻、あるいは愛する者との別れなどによって、私たちは予定外の、予想だにしなかった事態にぶつかります。あれもこれもと計画しても、結局はそれを果たすことができなくなるのです。思いがけない災害によって平和な家庭が一瞬のうちに破壊されたり、家族の病気が家中の生活を予想外の方向に押し流してしまうことも少なくありません。真実を尽くし正しくあろうとして思い悩むこともあります。しかし力を尽くして努力しても、私たちには何とも手に負えない現実があります。

 ヨセフは夜、夢の中で天使からの告知を受けました。ちょうどそのように、闇の中にたたずんで途方に暮れているような私たち人間のただ中に、神はイエス・キリストを贈ってくださいました。そしてヨセフに語りかけられたように、「恐れず、迎え入れなさい」と私たちを励ましてくださいます。

 ヨセフが身重になったマリアを迎え入れるということは、神の約束を信じ、神に信頼し、神の言葉を受け入れて、すべてを神に委ねることでした。ヨセフは眠りから覚めると、天使が命じたとおりにマリアを迎え入れました。それはヨセフが疑いと迷いから目覚めて、イエス・キリストを迎え入れる者となったということです。一切を神に委ねるとき、神は私たちを顧み、支え導いて、最善を成してくださいます。

 イエス・キリストの誕生は神が私たちと共におられることのしるしです。神は人間の救いと助けとして、この世に来てくださり、いつでもどこでも私たち人間と共にいてくださることを明らかにしてくださいました。

 クリスマスは、神が天の高みに留まることなく、人間のところへ来てくださった恵みのときです。イエス・キリストが私たち一人一人のところに来てくださり、神の愛が注がれたときです。

 

 イエス・キリストは今、私たちと共におられます。私たちはこの方を迎え入れて、神に心からの賛美と感謝を献げたいと思います。