主の十字架によって生かされる

                       ヨハネによる福音書  18章38節b~19章16節a

                                                   水田雅敏

 ここにはイエスを十字架につけた者たちの姿がありありと描き出されています。

 祭司長たちを代表とするユダヤ人たちはイエスをピラトに引き渡します。するとピラトは過越の祭りの時に犯罪人を一人釈放する慣例を利用して、イエスと並んでバラバを持ち出し、どちらを釈放してほしいかとユダヤ人たちに尋ねます。この問いを受けてユダヤ人たちはイエスではなくバラバをと叫びます。ユダヤ人たちはイエスを捨ててバラバを選んだのです。これは決定的な瞬間でした。

 このバラバは目的を達成するのに暴力的な手段を選ぶ人、力によって現状を覆しそこに別のものを立てようとする人、そのためには流血をも盗みをもあえてするような人でした。

 ですからユダヤ人たちがバラバを選んだということは力によって生きる道を選んだということです。

 それに対してイエスはどのような方だったでしょうか。イエスはそのような力に頼って生きることを拒否し、徹底的に愛に生きられた方でした。

 ここで考えさせられることは、もし私たちがその場に居合せたならばどうしただろうか、ということです。私たちはユダヤ人たちの声に逆らって、イエスを釈放しろと言うことができたでしょうか。もしかすると私たちもユダヤ人たちの声の中に加わっていたのではないでしょうか。バラバか、イエスか。力を頼みとして生きるのか、それとも愛によって生きるのか。これは日々、私たちに突き付けられている問いです。

 力によって生きることを選んだユダヤ人たちにイエスは、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」とおっしゃいました(19章11節)。「あなたがたの力はこの世のものだ。それは本当の力ではない。神から与えられる力こそ、まことの力だ。この力によってこそ真実の裁きは行なわれるのだ」と言われるのです。ここで、裁く者と裁かれる者との立場が逆転します。この世でどんなに力を持っていようが、神の前では無力な者にしか過ぎません。イエスの十字架は、実は神の力によって世の力、人間の力が裁かれた出来事だったのです。

 しかも人間の力が裁かれたそのところで驚くべきことが起こります。人間の力に頼って生きてきた人の象徴であるかのようなバラバが釈放されるのです。

 この赦されたバラバとは誰でしょうか。それは私たちにほかなりません。バラバに起こったことは私たちに起こったことです。神は人間をお裁きになり、これをお赦しになります。イエスが十字架につかれたのは私たちの罪を裁いて、これを赦すためだったのです。

 

バラバはこの後、どのような人生を歩んだのでしょうか。『バラバ』という本がラーゲルクヴィストという人によって書かれています。赦されたバラバがその後、良心の呵責に苦しみ、心の葛藤を経て、最後には悔い改めてキリスト者になる物語です。しかし実際のところは誰も分かりません。ただ少なくとも次のように言うことはできると思います。それは、バラバの人生は主の十字架によって生かされた人生だった、ということです。私たちは今、その人生を歩んでいるのです。