なおも先へ行かれる主

                                    ルカによる福音書 24章13節~35節

                                          水田雅敏

 弟子たちが歩きながら話し合っていた「一切の出来事」(13節)とはイエスの復活にまつわる出来事です。その出来事について語り合いながら歩いていると、そこに復活のイエスが近づき、弟子たちと一緒に歩き始められました。ところが不思議なことに弟子たちはそれがイエスであることに気がつかなかったというのです。私たちの信仰生活においてもこれと同じような経験をすることがあるのではないでしょうか。イエスのことを忘れていたり、イエスの言葉を聞いても気にも留めないということがあるのではないでしょうか。

 イエスはそのような弟子たちに御自分のことを丁寧に説き明かされました。けれどもそれで弟子たちが分かったかというと、そうでもなかったようです。

 やがて一行はエマオの村に近づきます。弟子たちにしてみればこのエマオという場所が目的地であり、そこで彼らの目的は達成されます。ところが28節に、「イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」とあります。イエスの目的地はエマオではなかったのです。エマオを越え、その先へ進み行かれる様子だったというのです。弟子たちがこれでいいとしたものよりも、なおその先の何かをイエスは見つめておられたのです。

 29節に、「『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」とあります。私たちにとって、イエスの歩む道がどこに続いているのかを知ること、またイエスの思いを理解することが、とても困難な場合があります。しかしイエスはそのような私たちを置き捨てて自分一人で進んで行かれる方ではありません。私たちが真剣に呼び求めるならばその家に留まってくださいます。

 その時、次のようなことが起こりました。一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパン

を取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(30~31節)。食事を共にした時、弟子たちはそれがイエスだと分かったというのです。おそらくこの時、弟子たちは、かつてイエスと共に経験した数々の食事、イエスと共に味わったあたたかい交わり、イエスに守られていた安心感、イエスに祈っていただいたことの喜びが、心の中に甦ってくるのを感じたのではないでしょうか。

 大変興味深いことに、弟子たちがイエスの存在を認めた瞬間に「その姿は見えなくなった」とあります。最初、弟子たちがイエスだとは分からなかった時にはイエスの姿は見えていました。ところがイエスだと分かった時にはその姿は見えなくなったのです。そして見えなくなったけれどもイエスだと分かったのです。つまり弟子たちはイエスが今もなお自分たちと共にいてくださること、イエスが復活したということが分かったのです。

 私たちはこのようなイエスを中心とする食卓と交わりが私たちにおいて常に実現することを祈り求めたいと思います。そして、復活のイエスがなおも先へ行こうとされたというその目的地に私たちの思いを凝らしながら、エマオを越えて、エマオから始まる新しい道を歩み続けたいと思います。