神からの賜物

                                       使徒言行録 2章37節~42節

                                         水田雅敏

 使徒言行録にはイエスの弟子たちが聖霊を受けた出来事が書かれています。聖霊を受けるとはどういうことでしょうか。

 私たちがイエスの福音について様々なことを聞き、知識ができます。しかしどこかピンときません。それはちょうどショーウィンドーの中の物を見るようによく見えます。よく分かります。しかし実際に手に取るわけにはいきません。ガラス板が遮っているからです。このガラス板を打ち破って、信仰が私たち自身のものになる時が来ます。それが聖霊を受けるということです。

 使徒言行録の2章にはペトロの説教が書かれています。37節に、ペトロの言葉を聞いた人々が「大いに心を打たれた」とあります。ガラス板がなくなったのです。福音の内容が人々の心に届き、心を打ち、悔い改めの痛みを呼び起こしたのです。ここに信仰が生まれたのです。「遂に信じることができた」という出来事が起こったのです。

 信仰は言うまでもなく、この私が信じるということですが、しかしそれは同時に神から与えられる賜物です。ですから信仰が私たちのものとなった時には、私たちは、「ああ、信仰を本当に自分のものにすることができた」ということを知ると同時に、「この信仰は自分で得たものではない。自分で保つことのできるものではない」ということを知るのです。信仰は自分のものではありません。自分の手の中にあるものではありません。神の御手の中にあるものです。神が私たちに与えてくださったものです。そういう意味で、自分の信仰が自分のものでありつつ、しかも自分のものではないことを知るのです。

 ペトロの説教に大いに心を打たれた人々は、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と尋ねました(37節)。そこでペトロはこう答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」(38~39節)

 「聖霊が与えられる」との約束は、そこにいる人々やその子孫ばかりでなく「遠くにいるすべての人」、つまり、それまで神がないままに神から遠く離れていた人すべてに当てはまります。私たちに与えられているこの素晴らしい賜物はすべての人に約束されているのです。ですから教会は伝道をするのです。教会が何か素晴らしいものを持っていて、「さあいらっしゃい。そうしたらこれをあげましょう」というのではないのです。むしろこの約束を信じて、これに支えられて、「これはもともと私たちだけのものではありません。あなたがたのものでもあるのです。ただ洗礼を受けさえすればよいのです」と呼びかけるのです。

 

 私たち自身がその人たちと同じように神から遠い者であったのに、神の御業に目覚めさせられ、その頑なな心を打ち破られて、今ここにこうしてあることを、私たちは感謝し、喜びたいと思います。そしてここから私たちの伝道の歩みを新しく始めていきたいと思います。