信じる者になりなさい 

                  ヨハネによる福音書20章19~29節

          水田雅敏                    イースターおめでとうございます。

 この箇所には復活のイエスが弟子たちのもとに現れたことが書かれています。しかし、そこに一人だけいなかった弟子がいます。それはトマスです。トマスはあとでやって来て、ほかの弟子たちから、「主は復活されたのだ。われわれはその主に出会ったのだ」と聞かされます。けれども、トマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言います。このトマスの姿は私たち自身の姿でもあるのではないでしょうか。主は復活されたと告げる言葉を聞いて、私たちもトマスのように疑ってしまうのではないでしょうか。

 「疑う」と訳されているもとの言葉(ディスタゾー)には「心が二つに分かれる」という意味があります。24節を読むと、トマスのことを、「ディディモと呼ばれるトマス」と紹介しています。「ディディモ」というのは「双子」という意味です。それはトマスが双子の一人として生まれたからでしょう。それと同時にこのニックネームはトマスの性格を言い表しているのではないかと思います。トマスは心が二つに分かれるような性格だったのではないかということです。彼の中には信じることと疑うこととが同居しているのです。

トマスは、「自分はこの手で触ってみなければ信じない」と言いました。けれども、復活のイエスに関心がないわけではありません。彼は、ほかの弟子たちに先を越されてしまい、自分だけ取り残されてしまったかのように感じて、弟子たちの言うことをそのまま受け入れるのがしゃくにさわったのかもしれません。最初から否定することを前提として疑っているわけではないのです。彼はイエスを自分の主と仰ぎ、その弟子であり続けたいのです。むしろ真剣に信じたいからこそ、自分の目で、自分の手で確かめなければならなかったのです。本当に信じてよいものなのか、自分自身を委ねてよいことなのかを確かめるために、疑っているのです。

このように考えますと、疑うことと信じることとは、正反対のところにあるのではなく、むしろ隣り合わせなのかもしれません。紙一重で背中合わせなのかもしれません。疑うことなくして信じることはない、ということなのかもしれません。

では、復活のイエスはこのトマスをどのように受け止めておられたのでしょうか。イエスは、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とトマスに語りかけておられます。イエスは信じることのできないトマスを排除なさいません。イエスは、疑うこと、信じられないことを否定的には見ておられないのです。

 

復活のイエスは今、私たちに語りかけておられます。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはそれに答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言いました。私たちも、「わたしの主、わたしの神よ」と告白して、復活のイエスを心にお迎えしたいと思います。