この方こそ神の子である 

                               ヨハネによる福音書1章19~34節

                                                              水田雅敏

 洗礼者ヨハネはここで、エルサレムから来たユダヤ人たちに、自分の正体を明かしています。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」ここから私たちは、洗礼者ヨハネの言う道が、水平線上に開かれる道ではなく、垂直線上に開かれる道であることが分かります。すなわち天の道、神と直結する道が荒れ野に開かれるのです。

 この荒れ野というのは、私たちの人生、私たちの今の生活を表しているのではないでしょうか。私たちは今、荒れ野を歩んでいますが、そこに神と直結する道が開かれるのです。しかもそれは、下から上にではなく、上から下に開かれてくるのです。私たちの人生の荒れ野に永遠の道が入り込んでくるのです。神の栄光が示されてくるのです。その光に私たちは照らされるのです。

 洗礼者ヨハネは自分のほうへ来られるイエスを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の子羊だ」と言いました。この「子羊」という言葉を聞いて思い起こすのはイザヤ書の苦難の僕の歌です。屠り場に引かれていく子羊のように打ちひしがれている人を見て、われわれは軽蔑していた。しかしその人の命が取られたのは実はわれわれの罪のためだった。イザヤ書が示しているこの一人の人、このようにして地上の人生が終わるイエスの登場を、洗礼者ヨハネは指し示しているのです。この方の死によって救われる世界が今、私たちの荒れ野に示されようとしているのだというのです。

 洗礼者ヨハネはイエスが洗礼をお受けになる時の様子を語る際に、「霊」という言葉を繰り返し用いています。この「霊」という言葉には「風」という意味があります。神からの風です。それが吹いてくるのです。荒れ野の中を歩んでいる私たちに神の霊、聖霊が吹いてくるのです。洗礼は水で象徴されるものですが、その洗礼は聖霊を受けているのです。聖霊によって私たちは洗礼を受けるのです。受けたのです。だからこそ、「この方こそ神の子である」と告白することができるのです。

 あるカトリック教会の司祭がこういうことを語っています。その人は聖霊の導きを受け、光を浴びるような体験をしました。この自分の体験の重さは生涯変わることはなかったと何度も感謝しています。そしてその体験に基づいてこう言えるようになったと言うのです。「『あなたは、神の存在を信じるか』と言われて、私は『もちろん』と答える。『その理由は』と問われるならば、『私は自分を信じているから』と答える。」

 言い換えると、神の存在を信じることができないならば、私は自分の存在をも信じることができないということです。自分があるのは当たり前のことではないのです。私の中に来てくださった神、この神の存在を信じることなくして、私は自分の存在をも信じることはできない。私がこのように生きることができる、自分の存在を受け入れることができるのは、神が私のところに来てくださったからだというのです。

 私たちもまた、イエスに向かって、「あなたこそ神の子です」と告白する者となっていることを心から感謝したいと思います。