弟子の覚悟 

                              ルカによる福音書9章51~62節

                                         水田雅敏

  57節から62節に、イエスと三人の弟子志願者との対話が書かれています。

  最初の弟子志願者は、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。それに対してイエスは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われました。「わたしには帰るべき安住の家がない。あなたにはそれがどういうことか分かるか」と言われたのです。

  次の弟子志願者は、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言いました。それに対してイエスは、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われました。「あなたの人生の中心にすべきなのは父親ではない。このわたしだ」と言われたのです。

  最後の弟子志願者は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言いました。それに対してイエスは、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われました。「あなたは神の国に集中しなさい」と言われたのです。

  このようにここには大変厳しい内容のことが書かれています。弟子志願者たちに対するイエスの言葉にはやさしさのかけらもありません。イエスは彼らに弟子としての断固たる服従を求めておられます。

  けれども、私たちが忘れてならないのは、ここで誰よりも断固としているのはイエス御自身のほうだということです。51節に、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とあります。ある本ではここの所を、「イエスは自らその面をエルサレムに向けて決然と進もうとした」と訳しています。エルサレムに向かうためにイエスの顔が岩のように堅固になったのです。なぜなら、天に上げられる時期が近づいたからです。それはイエスの十字架の出来事を指しています。

  つまり、イエスは弟子志願者たちとの対話を通して、その傍にいる弟子たちに遺言のようにして聞かせておられるのです。「わたしは今、断固として神に服従している。そのような覚悟と決意をもって、わたしはエルサレムに向かう。このわたしにあなたがたはついて来てほしい。わたしの弟子として従い続けてほしい」と。

  このイエスの呼びかけは私たち一人一人にも向けられています。この呼びかけに私たちは応えました。洗礼を受けた時に。洗礼を受けるということはその人にとっていろいろな変化を意味します。それまであなたはいろいろな人やものに従ってきたかもしれませんが、洗礼を受けるということは、断固として従うべきお方、本当に従うべきお方イエスを見出したということです。

  イエスが「従いなさい」と言われたのは、「そこに留まるな」「そこから出て来なさい」ということです。信仰に入るということは出て行くことです。イエスに呼ばれて、素直について行くことです。この呼びかけに私たちが今もなお応えているか、応え続けているか、そのことが問われています。

  イエスのあとを追いかけて生きる。そこに、私たちキリスト者の生きる道があります。レントの時を過ごしている今、このことを改めて心に覚えたいと思います。