まことの命の主 

                         マタイによる福音書27章62節~28章10節

                                                               水田雅敏

 聖書には四つの福音書が収められています。それらの福音書にはそれぞれ、イエスの復活の出来事が書かれています。そこで注目させられることはその四つの福音書全てにおいてイエスの復活そのものが書かれていないということです。書かれていることと言えば、イエスの墓を塞いでいた石が取りのけられていたということ、墓の中が空っぽでイエスの遺体がなかったということです。果たしてこれでイエスが復活したと言えるでしょうか。初代のキリスト者たちはどのようにしてイエスの復活を信じたのでしょうか。

 復活とは何でしょうか。最も単純に、極めて簡単に言うとすれば、復活とは、死んで、再び生きるということです。ですから私たちが復活を信じる時、まずそれに先立つ死というものを考えないわけにはいきません。聖書によれば、死とは虚無そのものです。創世記1章2節に、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあります。つまり創造の初めにあった混沌や闇、神が世界を創造される以前の姿、それが死です。私たちが「ダメだ、ダメだ」と思い、奈落の底に吸い込まれるように闇を恐れるのは、この創造の初めにある虚無を恐れているからではないでしょうか。その暗さが死の墓のように不安や恐れとなって現れるのです。

 今日の聖書を読んで知らされることは、今やイエスがその死の中にお立ちになったということです。イエスはその虚無の場所、死の墓から復活されたということです。ですから、「恐れることはない」(28章5節)と聖書は告げているのです。「奈落の底に吸い込まれるような闇や虚無の場所、そこには何もないのではない。そこにこそ復活のイエスが働いておられる」と言うのです。

 しかし、このようにイエスが復活されたということを聞いてもなお、私たちは死を恐れるに違いありません。聖書の女性たちもそうでした。28章8節に、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」とあります。婦人たちはイエスが復活したことを聞いて、ただ単に喜んだのではありません。恐れながら喜びました。復活の光に照らされた者は恐れながら喜ぶのです。私たちは悲しみや苦しみや絶望の中で死を恐れます。しかし、それでいいのです。恐れつつその中で生きればいいのです。イエスの復活を自分の喜びとして生きるのです。それが復活の命に生きるということです。

 最初に言いましたように、福音書の記者たちは皆、イエスが墓から出て来られたところを描き出すことをしていません。もしかすると、それはこういうことなのかもしれません。彼らは復活そのものを言葉によって描き出すことをあえてしていないのだ、と。復活そのものを言葉によって描き出すことをあえて抑制しているのだ、と。復活というのは言葉にできない出来事、説明のつかない出来事なのです。復活の出来事、それはただ神だけが信頼できるお方であるがゆえに信頼できる出来事、信仰をもって受け入れる出来事なのです。まさにそれは復活のイエスが今、私たちの中におられる事実なのです。