聖霊に導かれて歩む 

                                                使徒言行録 2章1~13節

                                                                                                      水田雅敏

 1節に「一同」とあります。これは使徒たち、婦人たち、イエスの母マリア、そしてイエスの兄弟たちのことです(1章13~14節)。けれども、彼らのうちイエスが十字架にかけられたときに最後まで従い続けた人は一人もいませんでした。尊敬してきたイエスの苦難、死に際して、誰も最後まで従い続けることはできなかったのです。しかし、イエスは死者の中から復活されて、彼らと会ってくださいました。ですから、彼らはまた集まること、祈りを合わせることができたのです。私たちキリスト者の集まりは自分に対する自信や自分の信仰深さによって造られるのではありません。そうではなく、自分の弱さ、自分のふがいなさ、自分の至らなさに気づかされた者に復活のイエスが会ってくださるから教会を造ることができるのです。

 使徒たちが集まるためには何かを犠牲にしなければなりませんでした。私たちも家族との団らん、友人との遊び時間など、大きなものから小さなものまで、何かを捨てなければ教会に集うことはできません。ペンテコステのときに使徒たちが捨てたもの、それは自分自身でした。ペンテコステの出来事は自分の弱さに気づいた使徒たちに聖霊が降ることによって、神のようになろう、人と比較して生きよう、自分のことを理解しろ、といった自己中心的な思いから解き放たれる出来事だったのです。

 4節以下を読みますと、聖霊に満たされた一同は「ほかの国々の言葉で話しだし」、それを聞いた人々は「わたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」と言って驚きました。聖霊が働くとき、自分自身が打ち砕かれて、新しい人に変えられると共に、人と人とを隔てていた隔ての壁が取り除かれます。それは決して自分の努力や能力でできることではありません。自分で自分を変えることができるのであれば、とっくに私たちは変わっているはずです。分かっていても変わることができない、それが私たちの現実ではないでしょうか。そのような私たちに聖霊は働いてくださるのです。

 3節に「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。この「炎」は神の力を表しています。火が油を燃やして炎を生じさせます。油は最初から熱いわけではありません。けれども、どんなに冷たくても、聖霊がそれに触れると炎のように燃えるのです。そしてその燃え方は、皆同じようにではなく、「一人一人」を大事に生かしながらなのです。

 使徒たちは聖霊を受けたあと、どのように生き始めたのでしょうか。一言で言えば、イエスのように生き始めました。それまで使徒たちは人の評価を気にして生きていました。しかし、聖霊が注がれて、もはや人との比較、他人の評価を気にして生きる必要がなくなりました。イエスのように、神のほうを向いて、その神から与えられた使命に生き始めたのです。聖霊は「分かれ分かれに現れ」ました。ですから、私たちの使命も一人一人違います。けれども、神を証しすることに変わりはありません。それぞれの働きを通して神を証しすること、それが私たちに与えられている使命なのです。