さあ、ベツレヘムへ行こう

    ルカによる福音書2章8~20節

                水田雅敏

 

今日の聖書の八節に、天使が現れたとき、「羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」と書かれています。羊飼いたちは日常的な仕事のただ中で神の言葉に接する機会を与えられたというのです。

このように日常の生活のただ中で、神との出会い、神からの招き、神の語りかけを体験して新しい歩みへと導かれていくことはいつの時代にもあり得ることです。私たちもそれぞれに日常の歩みの中に神との接点を与えられているのです。

羊飼いたちは何の準備も覚悟もない日常の営みの中で突然、天からの輝きと言葉に接し、大いに恐れ、驚きました。しかし、恐れるなと語りかけられる言葉に耳を傾けながら、彼らの心の中には、告げられた通りにベツレヘムに行って、「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」という思いが髙められていきました。そして事実、彼らは告げられた通りにベツレヘムに急いで出かけて行って、飼い葉桶の中に寝かせてある救い主を見出しました。私たちはこの羊飼いたちの従順さに注目したいと思います。おそらく、羊飼いたちに聖書に関する詳しい知識があったわけではないでしょう。ただ日常の仕事に責任をもって当たりつつ、神を畏れる敬虔な思いと、救い主の現れを待つ熱心な思いは誰にも負けずに抱き続けてきたことでしょう。だからこそ日常の働きの中で与えられた神からの啓示に従順に、しかも熱意をもって応えることができたのです。

羊飼いたちは天使の言葉、「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう」との言葉通りの出来事に出会って、それを人々に語り伝えました。彼らは飼い葉桶の中の小さな、貧しさの中にある救い主に躓くことはありませんでした。なぜでしょうか。天使の言葉を信じたからです。それは私たちにとっては十字架の上で無惨な死を遂げられたイエスに躓かない、

それが信仰の妨げにならないということです。羊飼いたちが貧しさの中に神の輝きを見たように、イエスの十字架の死の中に私たちの罪の赦しと新しい命を見ることができる、それが私たちの信仰です。

 羊飼いたちはこうして自分たちが体験した神の業を人々に宣べ伝えました。神は御自身の救いの業を明らかにしていく務めを私たちに託されるお方です。神は私たちの持っている小ささや弱さや足りなさを軽く見なされることはありません。私たちがその器に盛れるだけのものを盛って御業に励むことを、神はお喜びになります。私たちはこの礼拝を終えると自分の家へと帰っていきます。そこには前と変わらない日常の生活が待っています。しかし、礼拝からそれぞれの場へ帰っていくことは同時に、神によってそれぞれの場に遣わされていくことでもあります。羊飼いたちが救い主の誕生の感動と喜びをもって神を賛美しながら帰っていったように、私たちも、神は生きて働いておられるとの喜びに満ちた確信をもってこの礼拝からそれぞれの場へと遣わされていきます。私たちの日常の場は主が私たちを担ってくださる場であるからこそ、私たちもそこで神と人のために働くのです。