主の復活を待ち望む

          ヨハネによる福音書19章31~42節

               水田雅敏

 

福音書は主イエスの伝道活動が広がれば広がるほど、悪霊もまたますます頑強に抵抗する力を振るうようになっていったことを伝えています。主イエスの生涯の最後の数日間に起こった諸々の事件はそのような主イエスの福音と悪霊の戦いがクライマックスに達したことの記録でもあります。木曜の晩にゲッセマネで起こったこと、大祭司の家や総督の官邸で行われた裁判、そして金曜日の十字架、そこでは悪霊が最後の力を振り絞って神の御子を死に至らせようとする激烈な戦いが展開されています。主イエスの生涯とは、そのような死を意識しながら、そのような死に向かって進んでいかれた歩みでした。

もちろん人間は誰もがいつかは死にます。そういう意味では誰もが死に向かって歩んでいます。しかし、主イエスの場合は、そういう一般的な意味ではなく、このような生き方

をすればそのような死に方をするだろう、いやそういう殺され方をするだろうという覚悟の上でご自身の歩むべき道を歩み通されたのです。

古い世界、闇の世界、罪の世界に留まろうとする人々、そして悪の力は十字架を使って神の御子を殺しました。十字架は神の独り子がそれによって殺されたことによって人間が神に対して成し遂げることのできる最大の攻撃、最大の罪のシンボルとなりました。しかしまた逆に言えば、十字架こそがそうした人々や悪霊が持ち出すことのできる最後の手段であり、これこそが罪と死と滅びの最後のシンボルであり、もはやその先には何もなかったということもまた事実でした。

三日目に主イエスは復活されます。主イエスの復活は古き罪の世界に生きる人間たちの最後の最大の手段でさえ神の力によって打ち破られてしまったことを証しする出来事です。そしてそれはまた悪の力が最終的に打ち破られてしまったことを告げる出来事です。

しかし、私たちは今がまだ金曜日の夜であることをしっかり心に留めておかなければなりません。復活による新しい命、神の真の力が明らかにされる日曜日の朝よりも前の時点に私たちは立っているのです。今はなお私たちの内と外とに古い世界が息づいており、闇の力、罪の力がうごめいている時であることを私たちは知らなければなりません。私たちは、私たちの内部に潜んでおり、また私たちの周囲に荒れ狂っている悪霊の存在とその働きに目を向けなければならないのです。

私たちにとって、そしてこの世界のすべての人々にとって、主イエスの復活がもたらす喜びを本当に喜び感謝するためには、罪と死と滅びの古い世界が二千年前に存在し、今もなお残っているという事実を冷静に見つめなければなりません。そしてそのような世界が主イエスの復活という出来事を通して根本的に打ち破られてしまったことを告げる福音が、すなわち新しい世界が静かに着実に、そして決定的な形で始まったことを告げる福音が、私たちのもとに届けられる三日目の朝を待たなければならないのです。

 

レントを過ごす日々、私たちは深まりゆく闇と、墓の中に納められた主イエスの遺体を心に覚えながら、復活の朝を待ち望みたいと思います。