私たちを見守るイエス

                  ヨハネによる福音書21章1~14節

                     水田雅敏

 

ヨハネによる福音書がここで伝えていることは、どんな時でも主イエスは私たちを見守っていてくださるという事実です。私たちにとって人生の中でどんなに素晴しいことが起ころうと、あるいはどんなに悪いことが起ころうとも、いちばん大事なことは、その出来事の背後にいつも主イエスが立っておられるという事実に気づくことです。 

パウロはローマの信徒への手紙の8章の28節で次のように言っています。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益になるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」この言葉は聞きようによっては随分楽天的な言葉とも感じられる一句です。しかし、この言葉を記したパウロという人がその伝道の生涯において味わった多くの苦しみ、精神的にも肉体的にも経験した苦しみのことを思うとき、そのような人物がその生涯の終りに近い時期に書いたこの一句は決して安易な気休めといったものではなかったはずです。このようなことを書くことのできたパウロの実感こそ、私たちキリスト者が生涯を通して学ぶべき真実です。それは人生とは決して空しいものではないことを宣言する言葉です。私たちが出会うこと、私たちが体験すること、その全ては、常に神にあって豊かな意味を持っているということを教える言葉です。 

ヨハネによる福音書は主イエスが、湖から上がって来る弟子たちのために炭火をおこし、魚を焼き、パンを用意してくださっていたと書いています。福音書の中には主イエスがいろいろな人々と食事をする場面がたくさん出て来ますが、主ご自身が火をおこし、食べ物を料理したことが記されているのは、この箇所だけです。主イエスはそのようにして手ずから整えた食事を前にして、「さあ来て、朝の食事をしなさい」とおっしゃいました。一日を生きるための糧を弟子たちのために備えてくださったのです。人生を生きるための命の源を主イエスはいつも私たちのために備えてくださいます。何もとれない夜であっても、主イエスご自身が私たちのために朝の食事を備えてくださいます。 

ここに集う私たちもまたこの湖のほとりの弟子たちと同じように主イエスに見守られている存在です。主イエスから命の糧をいただいている存在です。私たちはこの礼拝の場で主イエスに見守られていることを思い起こし、主によって養われ、主に送り出されて、この世の旅路を歩むのです。私たちの人生のあらゆる時、あらゆる場面で、良い時にも悪い時にも、健康な時にも病んでいる時にも、喜んでいる時にも悲しんでいる時にも、私たちは測り知ることのできない神の恵みと憐れみの中に置かれています。その恵みと憐れみの中で私たちはそれぞれの人生を主イエスに従って歩んで行きます。私たちは決して孤独ではありません。私たちは主と共に生きるのです。主によって結ばれた仲間たちと共に生きるのです。信仰によって生きるとき、私たちの人生は決して空しいものに終わることはないというこの事実を、私たちは今日はっきりと心に刻みつけたいと思います。