無力な神の愛の中へ

 

ルカによる福音書15章11~32節

      水田雅敏

 

今日の聖書で語られている物語は昔から「放蕩息子の譬え」という名で知られてきました。ところが、よくよく注意して読んでみると、この物語は「放蕩息子の譬え」ではないことに気づかされます。主イエスは弟息子が放蕩に身を持ち崩したという不道徳について語っておられるのではないのです。ですから、よく言われているように、この弟息子のような放蕩者が回心して家に帰って来たことが福音だというように、もしも私たちが受け取ると、主イエスがここで語ろうとしておられることに対して全く逆の説明を加えることになります。

それでは、この物語の焦点はどこにあるのでしょうか。それは父親にあります。一一節に「ある人に息子が二人いた」とあります。この物語は「ある人」、すなわち「父」の物語なのです。当時、ユダヤにおいては、父は子に対して能力のある全能な存在、子をどのようにでも扱うことのできる存在だと考えられていました。しかし、本当に父が子を愛して、その子に愛をもって接するときに、この全能な父が全く無力な者になるということを、この物語は伝えているのです。

それでは、この物語は何を私たちに教えようとしているのでしょうか。それは、神の呼びかけに応えようとしない人間の帰るところとはどこなのか、ということについてです。 

この物語には結びの言葉がありません。結論のない物語になっています。どうしてでしょうか。この物語を語られた数週間後に主イエスは十字架の上で、人々の嘲りのうちに苦悩し、無力に死んでしまいます。つまり、この物語はそのままに、主イエスの十字架の叫び声そのものなのです。この父親の叫びはそのままに、声の荒い人々の非難と口汚い罵りの言葉を浴びながら十字架に死のうとされるあの主イエスの無力さに連なっているのです。この父親の無力さは、神の無力さであると同時にまた、十字架上の主イエスの無力さなのです。

帰るべきところに帰ることをせずに、本当に依り頼むところに依り頼まずに、まるで風見鶏のように、あるときは北に、あるときは南に、あるときは自らに依り頼んで、決して神の愛の呼びかけに応えようとしない人間の帰るところ、それは無力な神の立ち尽くすところ、十字架上の主イエスです。私たちが経験する私たち自身の愚かさや悲しみ、その結果がもたらすものの中で、まさに私たちは愛のゆえに無力に立ち尽くしておられる神、十字架上の主イエスに出会うのです。この物語は単なる譬え話ではありません。まさに主イエスご自身の物語、主の十字架の物語なのです。

主イエスは今、私たち一人一人に呼びかけておられます。不道徳で愚かさの限りを尽くした人たちのみならず、立派な見識を持つ人たちでさえも決して避けることのできない人間なるがゆえの弱さと愚かさに共感して、主イエスは今、呼びかけておられます。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる」と。

 

私たちも私たちが立ち帰るべきところへ帰りたいと思います。私たちを新しい人として生き返らせることのできる主イエスの十字架のもとへ。無力な神の愛の中へ。