「一粒の麦」

                      ヨハネによる福音書122026

                                                   水田 雅敏

 

今日の聖書の箇所はヨハネによる福音書の12章の20節から26節です。

20節から21節にこう記されています。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、『お願いです。イエスにお目にかかりたいのです』と頼んだ。」

過越の祭りの時にはエルサレムに多くの巡礼者が集まります。ユダヤに住んでいる人々だけではなくて、外国からもやって来ます。その中にはギリシア人もいました。そして、何人かが「主イエスに会いたい」という願いを持っていました。もしかすると、主イエスに対する群衆の熱狂ぶりを見て、そういう思いを抱いたのかもしれません。とにかく、私たちの言葉で言えば、求道の志、道を求める志を与えられて、主イエスの弟子のフィリポに声をかけたのです。

なぜ、ここにフィリポが出て来るかというと。「フィリポ」という名前はギリシア的な名前だそうです。十二人の弟子の中で、自分たちに一番近い名前を持っている者に、親しみを感じたのかもしれません。

この福音書の1章の45節を読むと、フィリポは、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」、つまり、「救いを実現する方に出会った」と言って、ナタナエルを主イエスのところに導く役割を果たしています。フィリポは、いつも主イエスとの間に立って、人々を執り成す役割を果たしていたのかもしれません。

しかも、フィリポはここで、とても丁寧な手続きを取っています。いきなり主イエスのところには行きません。22節を読むと、まずアンデレに、「こういう話があるのだけれども、どうだろうか」と尋ねています。そして、アンデレの同意を得て、わざわざ二人で主イエスのところに行き、「ギリシア人が会いたいがっているのですが」と伝えるのです。

なぜ、ここにアンデレが出て来るかというと、これも1章の記事によれば、アンデレもまた、フィリポがナタナエルのところに行くのに先立って兄弟シモンのところに行き、「わたしたちは、メシアに出会った」、つまり、「救い主に出会った」と言って誘っているのです。

こうして読んでいくと、フィリポもアンデレも、主イエスを紹介する役割を担った者の模範として、その名が書かれていることが分かります。

私たちもそうです。私たちも独りでここにやって来たわけではありません。誰かに紹介してもらったのです。ある人は家族に、ある人は知人、友人に、ある人は誰かが書き、誰かが配ったチラシを見て、ある人は教会のホームページを見て、ある人は学校の教師たちの信仰に触れて、そのように私たちは様々な仲立ちを通じてここを訪ねたのです。そこで牧師に会います。しかし、牧師もまた仲介者に過ぎません。主イエスを指さして紹介します。

そのように、皆さんがフィリポでありアンデレになっておられるので、私たちの教会でも洗礼を受ける方が折りあるごとに与えられるのです。

アンデレとフィリポの話を聞いた主イエスは、まずこう言われました。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」

主イエスは、おそらく、幼い時から麦畑に親しんでおられたと思います。ナザレの村の畑で大人たちが種まきに精を出しています。種が、耕された土の中に落ちていきます。姿を隠してしまいます。見えなくなります。死んだとしか思えません。しかし、何もなくなってしまったように思われるところに、緑の芽が吹き出ます。そして、そこに捨てられたはずの粒と同じ粒がたわわに実ります。しかし、もしもこの一粒の麦が「この姿を変えられるのは嫌だ。ここで死んでしまうのは嫌だ」と頑固に言い張って、農家の片隅に生きているつもりでいるならば、この実りはありませんでした。

麦の実り、それは自然の移り変わりの一コマでしかなかったかもしれません。しかし、主イエスはそこに、神の愛の不思議な御業が映し出されていることを見ておられました。そして、やがて明確に神の御心を知るようになった時に、自分がまさにその一粒の麦になることこそ神の御心であることを知るようになりました。

「人の子が栄光を受ける時が来た」と主イエスは言われました。この「人の子」というのは「救い主」という意味の言葉です。人々がそのように救い主のことを呼んだのです。

「栄光を受ける」。この言葉は一般に、人が人生の頂点に立った時に用いられます。長い間の努力が実り、その人にスポットライトが当てられます。主イエスもまた、栄光をお受けになります。しかし、それは一粒の麦としての死です。すなわち十字架です。人間の歩みの最も低く、最も暗いところに、神の御子がお立ちになるのです。

この御子の犠牲がなければ恵みに生きる道はなかったということを、私たちは知っています。知っているつもりです。それだけに、今改めて問われます。「あなたのために主イエスは一粒の麦となられた。あなたはその実りだ。そのことをあなたはどこまで受け止めているか」。

洗礼を受ける方が与えられると、私たちは喜びに溢れます。神をほめたたえます。しかし、同時に、すぐに私たちの心の中に芽生える一つの祈りは、「どうか、この人の決心が変わらないでほしい。死ぬまで変わらないでほしい」ということです。なぜなら、大変残念なことですが、洗礼を受けた方が必ずしもその信仰を全うしないということがあるからです。

死ぬまで変わらない信仰に生き続けるために決定的に大切なこと、それは主イエスが私のために死んでくださったことを本気で受け止めるということです。言い換えると、私たちの信仰生活がいい加減になる時には、主イエスの死を無意味なものにしているのです。その一粒の麦から生まれた実りである自分自身を踏みにじっているのです。

主イエスはさらにこう言われます。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

ある人は「この部分で一番大切な言葉は『いる』という言葉だ」と言います。主イエスのいるところにいること、それが最も大切なことだというのです。

例えば、私たちは教会生活が困難になることがあります。実際に礼拝に出られなくなります。病気になったら来られなくなります。自分は元気でも、目を離すことができない人がいたら、来ることができません。その務めを放り出して、ここにいる間に家族がどうなっても構わないから礼拝に来なさい、などというようなことは、主イエスはおっしゃいません。

大切なことは、主イエスがいるところにいるということです。教会堂の外においても主イエスはいてくださいます。どこにでも聖霊としていてくださいます。主イエスの霊がおられるところに私たちはいるのです。

それだけではありません。ここに「父はその人を大切にしてくださる」という言葉があります。神が私たちを重んじてくださるのです。尊んでくださるのです。宝物にしてくださるのです。「この神との交わりの中にあなたを置くために、わたしは一粒の麦となる」と主イエスは言われるのです。

けれども、ここでは、ただそこにいる私たちが単純にその名を呼ばれているのではありません。「あなたはわたしに仕える者」と主イエスは言われます。

これは親子の関係に似ているかもしれません。子供はどこに行くにも親の手をしっかり握って離しません。子供はそうしなければ生きていけません。まるで親の存在の一部になっているかのようです。

そのように、私たちは主イエスの一部になったかのように主イエスの霊と一緒です。主イエスの霊にくっついています。ですから、主イエスの霊に従うことも極めて自然なことです。主イエスと一緒にいながら主にお仕えしないということはないのです。

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。その多くの実りを、主イエスはご自身の幻の中に見て、心から喜んでおられたに違いありません。そこにご自身の栄光を見ておられたに違いありません。

 

私たちが今しなければならないことは、この御言葉を全存在をもって「アーメン」と受け止めること、ただそれだけです。